企画展

第1回世田谷フィルムフェスティバル 映画監督小林正樹の世界展

2000年1月7日(金)~2月5日(土)

平成8年世田谷梅丘で永眠した映画監督小林正樹は、戦争の不条理さを描いた大作「人間の條件」「東京裁判」などの重厚な作品で知られています。日本映画ばなれした大作を製作しながら、俗化せず、妥協を許さない映画づくりは海外にも響き渡り、昭和46年のカンヌ国際映画祭で世界十大監督の一人として功労賞が贈られ、その作品は『鋼鉄(はがね)の日本映画』と絶賛されました。
小林監督は大正5年、北海道小樽市に生まれました。映画・文学好きの兄を持ち、女優田中絹代が親戚であるなど、映画への関心は自然と育まれていきます。一方、昭和13年早稲田大学文学部哲学科入学とともに、会津八一に美術史を学び、東洋美術への造詣を深め美術史研究に没頭します。しかし卒業後、軍隊への入営迫るなか、学問の道を断念、より短い期間で自身の生の証を遺すことができる《映画》という新しい芸術に賭ける決心をし、松竹大船撮影所助監督に入社します。
翌17年から20年まで、陸軍で旧満州などに出征。終戦後の約1年間は、沖縄の捕虜収容所に労働要員として収容されます。5年に及ぶ苛酷な戦争体験は、後の映画製作の原点となります。帰還後はただちに木下恵介監督の助監督を務め、36歳にして「息子の青春」(昭和27年)を初監督。安部公房脚本による3作目「壁あつき部屋」(同28年)では、無実でありながらBC級戦犯として投獄された戦争犠牲者を描き、その後も人間の原罪や、国家権力による不条理を描いた「人間の條件」(同34~36年)、「日本の青春」(同43年)「東京裁判」(同58年)など数々の作品を生み出しました。
平成11年、小林監督のご遺族から世田谷区へ、蔵書を中心に約3000点もの関連資料が寄贈されました。これらの資料には、助監督時代のものや、戦争を題材として映画資料をはじめ、封建時代における武士の生きざまを描いた「切腹」(同37年)「上意討ち」(同42年)、小泉八雲原作で小林監督初のカラー作品となった大作「怪談」(同39年)、井上靖原作の「化石」(同49年)、そして実際に映画化が適わなかった「こころ」「日本の休日」「敦煌」関連資料など、小林監督の全業績にかかわる貴重な品々が含まれています。
本展では、映画ポスターやチラシ、撮影台本はもとより、他の映画監督や俳優との交流が読み取れる書簡、映画化に向けての様々な書き込みがされた蔵書や創作ノート、そして戦場で死を覚悟しながら書き上げた幻の脚本「防人(さきもり)」や遺愛の品々約500点をとおして小林監督の映画人生を辿ります。