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文学を体験する空間「世田谷文学館」


コレクション紹介

小堀杏奴 姉・森茉莉あて書簡 ― 小堀鷗一郎氏寄贈資料より

2013年8月15日

 森茉莉(もり・まり/1903~1987)と小堀杏奴(こぼり・あんぬ/1909~1998)の姉妹は、森鷗外の娘として生まれ、小説家・随筆家としてそれぞれ稀有な個性を開花させました。今回取り上げる当館収蔵品は、当時女学校1年生だった杏奴が父の死に直面して綴った一通の手紙です。

「さよならパッパ」

 鷗外が体調の衰えをはっきりと自覚したのは1921(大正10)年秋ごろだったようです。長男・於菟(おと)と長女・茉莉は既に結婚して一家をもうけていましたが、次女の杏奴は12歳、三男(次男は夭折)の類(るい)は、まだ10歳の小学生でした。帝室博物館総長兼図書頭という役職の傍ら、鷗外は受験を控えた杏奴を毎日勤務先に伴って総長室で勉強をさせ、手作りの歴史と地理の教科書を与えるなど、愛情の限りを尽くしました。甲斐あって翌春杏奴は無事に仏英和女学校に合格します。

 「もう厭な算術をやらなくて済むね」
 父は晴れ晴れとした快い微笑をもって私を見た。
 小堀杏奴『晩年の父』より

 しかし、平穏な日々もつかのま、鷗外は病の床につき、1922(大正11)年7月9日、ついに帰らぬ人となりました。享年60歳。病名は萎縮腎、肺結核の進行も認められたそうです。

 白い布をとると、ほねばつた青い顔でさもらくさうに笑つて居ます。お母さんはパッパ杏奴が参りました。どうぞ守つてくださいとふるへ声で言ひましたので、私は又声を上げて泣きました。
 あれ程パッパが死ねば生きて居られないと思つたほど大切な大切なパッパです。ゆめであればいいと念じましたが、たうたうほんたうの事となりました。
 そしておかんに入れない前、類ちやんと三人で手を固くにぎつて、さよならパッパさよならと、生きた人に言ふようにもうしました。
 小堀杏奴 姉・森茉莉あて書簡より

『晩年の父』の原点

 薄い水色の便箋5枚に一語一語丁寧に記されたこの手紙は、杏奴が鷗外の死からまもない時期に6歳上の姉・茉莉に書き送ったものです。このとき茉莉は夫と共にヨーロッパに滞在中でした。遠い異国にいる姉に、父の死をめぐる状況を懸命に伝えようとする少女の姿が、行間から鮮明に浮かびあがってきます。
 やがて成長した杏奴は画家をめざし弟の類と共にパリへ留学、絵の勉強のかたわら鷗外とも親交のあった与謝野寛・晶子夫妻の勧めで旅行記などエッセイを発表するようになります。帰国後、留学中から構想を温めていた「晩年の父と私」の執筆に取り組み、1936(昭和11)年に『晩年の父』として刊行すると、大変な評判となりました。杏奴、26歳のときでした。

 近頃読んだ書物の中で、この『晩年の父』くらゐ感心したものはない。これは実に稀有な父を、稀有な娘が、稀有な愛情と稀有な観察とを以て描いた稀有な文章である。
 安倍能成「『晩年の父』の感銘」より

 『晩年の父』では思春期の少女のみずみずしい感性と、巨木がゆっくりと倒れていくような文豪の死が対照的に描かれますが、その原点は、杏奴が父の死の直後にしたためた姉宛の手紙にあったのかもしれません。愛する父を失った少女は、書くという行為を通して、知らず知らずのうちに、つらい事実を客観的に受け止め、対象を冷静に観察するすべを体得していったのでしょう。
 いっぽう、旅先で父の死を知らされた茉莉はこのあと二度の離婚を経験し、文学を志すようになります。しかし、模索の時代は長く続き、作家として本格的な活躍を始めるのは1957(昭和32)年、54歳で初の随筆集を上梓してのちのことでした。このときの随筆集が『父の帽子』です。鷗外の思い出は茉莉にとっても文学上の出発点となり、作品に深い影を落としていきます。
 姉妹の人生と文学に決定的な影響を与えた森鷗外の死。その死を伝えるこの手紙は、茉莉から杏奴の手許に返され、杏奴は、貴重品を入れる引き出しに生涯大切にしまっていたそうです。

写真
上/小堀杏奴 姉・森茉莉あて書簡
下/『晩年の父』装幀原画 杏奴の夫で洋画家の小堀四郎が装幀した

※「世田谷文学館ニュース」第46号(2010年8月発行)より再録。再録にあたり一部情報を修正・更新しました。

関連情報
父からの贈りもの 森鷗外と娘たち展(2010年10月2日~11月28日)

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芹沢光治良『人間の運命』第1部第3巻原稿

2013年8月9日

大河小説の創作を支えた力

 芹沢光治良(1896~1993)が世田谷区三宿に住まいを借りたのは、1946(昭和21)年1月。戦災にあった自宅を建て直して戻るまでの約11年半、戦後の最も多忙な活動時期を三宿の家で過ごしました。そして、この多忙で海外での評価も高まった時期、のちに全14巻の『人間の運命』(1962~1968年、新潮社 ※2013年、勉誠出版より完全版『人間の運命』全18巻刊行)として結実する大作の構想を得ます。
 『人間の運命』執筆の経緯は、第1巻「父と子」(1962年、新潮社)のあとがきに、「パリの出版社から、数巻になっていいから、明治から現代までの日本の歩いた道を感じさせる大河小説を書くように、もとめられた」(「大河小説の最初の構想―若い友柴田徳衛君に―」)とありますが、この構想の実現は、これを熱心に勧め、執筆の支えとなった若い友人で経済学者の柴田徳衛氏(現・東京経済大学名誉教授)の力に大きく与っています。
 この大河小説は、波瀾に富む幼少期、青年時代を経て小説家となった芹沢本人とその周辺がモデルに見えますが、自伝的小説の枠を超え、その時代の日本とその中を生きた日本人を描こうと意図されています。そのために、自分の体験や記憶に加え、より客観的に社会の諸事象を踏まえ歴史的事実に対する知識を持って取りかからなければなりませんでした。そこで、柴田氏は綿密な巨大年表を研究の傍ら作り上げ、芹沢に提供したのです。のちに芹沢は柴田氏について、「苦心して多くの資料を集め、この六七十年間の日本の政治や経済や外交や文化、事件等について、数種の詳しい年表までつくり、それを見れば、日本の歩みがわかるようにしてくれた。」(前掲書)と記しています。
 芹沢は、第6巻(1964年、新潮社)のあとがきで、「あの資料の上に腰を据えたから、安心して小説の世界に歴史的事実をすてて、所謂社会小説にしないですんだと、考えている。」と述べ、友人の力添えが糧となって目指す作品に至ることができたことを重ねて読者に伝えています。最後の第14巻(1968年、新潮社)のあとがきも柴田氏への謝意と自ら大伽藍建築と喩えた渾身の大作完成の喜びを彼とわかつ言葉で始めます。

一般読者を最大の理解者として

 この作品の構想を得たのち、芹沢は自身が書かなければならないと思う作品だけを書くため、数多かった注文原稿を一切受けずに書き下ろしに専念し始めました。にもかかわらず、この作品の刊行当初、文壇内からは殆ど反響がなく、芹沢は落胆を覚えます。しかし、徐々に一般読者からの支持を実感することから自らの文学の目指すところの正しさを確信します。
 このように、芹沢の一番の理解者は文壇ではなく常に一般読者であり、現在でも熱心な読者の声により繰り返し再評価がなされる稀有な作家となりました。そして柴田氏は、この作品の完成を喜んだ読者の代表でもありました。
 「『人間の運命』は、日本の二十世紀のうねりを語りつくす大変な作品である。」(「『人間の運命』をめぐり」、世田谷文学館『生誕百年記念 芹沢光治良展』図録、1997年)と、柴田氏が位置づけるように、近代国家を目指す日本が抱えた諸問題、国内外の社会的出来事や二度の大戦が市民の生活と精神に与えた影響、信仰と宗教、知識人のモラルなど、この作品が描く問題は実に様々です。「人間主義(ユマニスム)」と評される芹沢光治良文学の特長は、この大作を読み通すことで最もよく知ることができるのではないでしょうか。
 柴田氏から当館に寄贈された『人間の運命』第1部第3巻「愛」*(1963年、新潮社)の自筆原稿の製本された見返し部分には「長いご援助に感謝して」という芹沢自筆の献辞が添えられています。黙々と書き続ける孤独な創作活動によって積み上げられた壮大な文学作品の完成までの長き道のりを、実務面と精神面の両面で支援した友人への真心からの感謝が込められた言葉です。
 2003年、柴田氏より、この想い出深い貴重な資料を、本作品が構想された世田谷にご寄贈いただきました。これからも、先行きの不安と闘う現代日本人の生きる力となる文学として、芹沢文学がより広く読まれることを願ってやみません。


*『人間の運命』第1部第3巻「愛」は、完全版『人間の運命』(2013年、勉誠出版)では第4巻にあたります。

写真
上/芹沢光治良『人間の運命』第1部第3巻原稿
下/芹沢光治良『人間の運命』全7冊(全3部14巻、新潮社)

※「世田谷文学館ニュース」第37号(2007年8月発行)より再録。再録にあたり一部情報を修正・更新しました。

関連情報
生誕100年記念 芹沢光治良展(1997年4月26日~6月8日)

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映画監督・成瀬巳喜男旧蔵資料

2013年7月25日

 日本映画の名匠・成瀬巳喜男(1905~1969)旧蔵資料を、ご遺族の成瀬有様より、2011年度にご寄贈いただきました。当館では2005(平成17)年に世田谷フィルムフェスティバル「生誕百年 映画監督・成瀬巳喜男」を開催しましたが、その際にお借りして展示したものを含め、多数の貴重な資料が当館に加わることとなりました。資料の内訳は、本人の書き込みのある撮影台本、2,000点以上にのぼる映画スチールや撮影風景写真、トロフィーなどの受賞記念品、書斎で使用していた文机や愛用の品、蔵書、書簡、文書類などです。

生涯の転機―松竹蒲田からPCLへの移籍

 1905(明治38)年、四谷坂町の刺繍職人の次男として生まれた成瀬巳喜男は、1920(大正9)年松竹蒲田撮影所に小道具係として入社。のちに助監督となるも、後から入社した助監督たちが監督に昇進していくのを横目に、ようやく1929(昭和4)年に『チャンバラ夫婦』で監督デビュー。小市民映画『腰弁頑張れ』などで注目されますが、撮影所長の城戸四郎からは作風の近かった小津安二郎と比較して「小津は二人要らない」と言われ、いつまでも監督補の地位にとどまり苦汁を味わいました。やがて成瀬はPCL(現・東宝)に移籍して『妻よ薔薇のやうに』などトーキーの傑作を生み、大監督の道を歩むことになります。その日本映画史に名高いエピソードを示す資料が、松竹からの「依願解雇」の通知書です。成瀬が松竹を辞めたのは1934(昭和9)年の6月のことでした。PCLの取締役・森岩雄から明治製菓宣伝課長・内田誠を通じて移籍が要請されました。内田は城戸と中学の同窓で森の友人でもあり、成瀬とは『チョコレート・ガール』(1932年)など明治製菓とのタイアップ作品を成瀬が撮っていることから旧知の人物でした。また、成瀬が松竹に辞表を提出し受理された日には、当時明治製菓に勤めていた藤本真澄が蒲田駅前で待っていたといいます。藤本はのちに、プロデューサーとして数々の成瀬作品を手がけることになります。
 PCL移籍の理由について成瀬は「蒲田に居るといつトオキイが撮れるのか分らないので非常に寂しかつた。」と、「キネマ旬報」誌の座談会(1929年9月21日号)で語っており、トーキー作品を撮れる場所を求め、当時トーキーの最先端の技術を備えていたPCLに、29歳の成瀬が意欲に燃えて移籍したことがうかがわれます。なお、この通知書にある「撮影監督」は、当時、松竹で舞台を演出する「俳優監督」と区別して、映画監督をこのように表記したものです。

秘蔵の撮影台本にみる苛烈な創作過程

 松竹蒲田の助監督時代、成瀬は愛称の「ミキちゃん」をもじった「三木池畔(ちはん)」のペンネームで精力的に脚本を執筆し、監督となってからも1933(昭和8)年の『君と別れて』やPCL籍後の1935(昭和10)年の『妻よ薔薇のやうに』など、多くの作品の脚本・脚色を自ら手がけました。しかし戦後は、田中澄江や井出俊郎、水木洋子など脚本家のシナリオに手を入れながら演出を行うようになります。成瀬は時間があればセットの片隅で、撮影台本から不要と思われる部分を削除していたと多くの人が証言しています。その台本を成瀬はスタッフや俳優にけっして見せなかったため、スタッフからは一種の親しみもこめて「いじわるじいさん」とひそかに呼ばれていました。
 当館へご寄贈いただいた資料の中には、『晩菊』『女が階段を上る時』『放浪記』『乱れる』など、戦後の数々の傑作の撮影時に使用された、書き込み入りの台本が多数含まれていました。どの台本にも細かい絵コンテの書き込み、カット割を示す線、そして容赦なく台詞を削除する線や、ときに一つのシーンを丸ごと大胆にカットした跡が見られます。成瀬組はロケーション撮影が少なく、いつも決まったカット数を撮り終えると定時に撮影が終了することが多かったといわれます。台本にある台詞やシーンの削除は、撮影所システムの中で働く職人監督として、決められた時間と予算の中で作品を仕上げるための成瀬の配慮でもあったでしょう。しかし、台本と実際に出来上がった映画を見比べると、ときには削除された台詞の行間で、何カットもの芝居が行われていることが分かります。台本に書かれた台詞やシーンをすべて撮り切ることで、自分が得意とする日常生活の細かなディティールを描く時間が削がれることを成瀬は周到に避けていたのかもしれません。説明的な台詞を省いて俳優のしぐさや目線だけで表現し、繊細な描写を積み重ねる成瀬の演出は、比類のない作品世界を築き上げ、今日世界的に高い評価を得ることとなりました。激しいほどの書き込みがなされた秘蔵の台本からは、苛烈な創作の現場における演出家・成瀬の強い矜持をも感じ取ることができます。

参考文献:田中眞澄ほか編『映畫読本 成瀬巳喜男』(フィルムアート社)、スザンネ・シェアマン『成瀬巳喜男 日常のきらめき』(キネマ旬報社)、尾崎秀樹編『プロデューサー人生 藤本真澄 映画に賭ける』(東宝株式会社出版事業室)ほか

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上/「依頼解雇 通知書」1934年
下/書き込みのある遺作『乱れ雲』の撮影台本と愛用の文具など

※「世田谷文学館ニュース」第48号(2011年4月発行)より再録。再録にあたり一部情報を修正・更新しました

関連情報
第6回世田谷フィルムフェスティバル 生誕100年 映画監督・成瀬巳喜男(2005年1月29日~4月10日)

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萩原朔太郎 萩原栄次あて絵入はがき

2013年7月11日

 今もなお、萩原朔太郎の詩魂の輝きは衰えることなく現代人の心を揺さぶります。今回は朔太郎が文学に目覚めたころの資料をご紹介します。

従兄(いとこ)による文学の手ほどき

 萩原朔太郎は1886(明治19)年、群馬県前橋町(現前橋市)に生まれました。生家は代々続く開業医でした。六人弟妹の長男に生まれた朔太郎は、医業を継ぐことを運命付けられていましたが、幼少から神経過敏で病弱のため内向的で学校は休みがち、勉強も苦手でした。
 「詩はただ病める魂の所有者と孤独者との寂しい慰めである」とは後年の朔太郎の言葉ですが、ひたすら感情の世界を彷徨し続ける孤独な少年が心開くことのできた相手が、八歳年長の従兄・萩原栄次でした。
 栄次は中学卒業後、伯父に当たる朔太郎の父・密蔵の営む医院に書生として住み込み、代診を務める一方で朔太郎の世話もしました。医師であるのと同時に文学にも造詣(ぞうけい)が深く、朔太郎は連日連夜栄次の部屋を訪ねて物語を読み聞かせてもらったといいます。また、朔太郎は1913(大正2)年ごろに手製で作った歌集『ソライロノハナ』で、次のような回想をしています。

 十五歳の時には古今集の恋歌をよんで人知れず涙をこぼす様になつた。その頃従兄栄次氏によつて所謂新派の歌なるものの作法を教へられた。鳳晶子(オホトリアキコ・後の与謝野晶子)の歌に接してから私は全で熱に犯される人になつてしまつた。
 十六歳の春、私は初めて歌といふものを自分で作つて見た。(中略)此の時から若きウエルテルの煩ひは作歌によつて慰められるやうに成つた。然し又歌そのものが私の生命のオーソリチイであつたかも知れない。

 栄次から短歌作法を学んだ朔太郎は、16歳のとき前橋中学校友会誌「坂東太郎」に短歌5首を発表。これが朔太郎の文学を開花させるきっかけとなります。朔太郎は兄とも慕った栄次から多くの精神的な影響を受け、文学の世界に魅了されました。

運命の転換

 栄次にあてた朔太郎のはがきを一通、当館で所蔵しています。1905(明治38)年8月18日付、朔太郎20歳のときのものです。

 祖父様祖母様省三君の一行と共に大磯の海水浴にあり雨多くして水浴の機会少なきを限〔ママ〕む。
 尚この地に三日を費やすべき予定也。
 昨雨〔ママ〕大暴風雨あり激浪の高きもの一丈に達し轟々の音夜もすがら止まず
 此の図、海浜のスケツチ御笑覧下されたし
 ここにきて未だ一の句なく歌なし。
 八月十八日したたむ

 母方の祖父母と従弟・八木省三と行った大磯から出されたものです。屈託のない文面ですが、「ここにきて未だ一の句なく歌なし。」という一文からは、旅行先でも朔太郎の意識が文学に向いていたことがわかります。
 当時、朔太郎は前橋中学校五年生、「萩原美棹(みさを)」などの筆名で「文庫」「明星」に投稿し、新進歌人として注目を浴びていました。同年7月20日付の栄次の日記には、朔太郎の妹・ワカから手紙をもらい「兄サンガ医者ニナラヌト云フカラ心配ダトカデ、イロイロナ相談ヲ受ケタ。」とあります。ワカの不安は的中しました。次第に芸術が朔太郎の生活を支配するようになり、不世出の天才詩人を生むことになるのです。
 また、このはがきは朔太郎自筆の水彩画が描かれている点でも興味深いものです。朔太郎はマンドリンを学び音楽家を志したことがあり、立体写真や手品を趣味とし、自ら設計した自宅でダンスパーティを催すなど大正モダンの最先端でした。さらに、絵画もたしなんだ朔太郎の豊かな芸術性がうかがえます。
 1913(大正2)年、朔太郎は北原白秋主宰の詩誌「朱欒(ざんぼあ)」に掲載されていた室生犀星の詩に感動し、詩作を始めます。そして、1917(大正6)年に処女詩集『月に吠える』を刊行して口語自由詩を確立しました。日本近代詩に不滅の金字塔を打ち立てたこの一冊には、「従兄 萩原栄次氏に捧ぐ」という献辞が記されています。

参考文献:『萩原朔太郎全集』(筑摩書房)、萩原朔太郎『ソライロノハナ』復刻版(日本近代文学館)、萩原隆『若き日の萩原朔太郎』(筑摩書房)ほか

写真 萩原朔太郎 萩原栄次あて絵入りはがき 1905(明治38)年8月18日

※「世田谷文学館ニュース」第38号(2007年12月発行)より再録。再録にあたり一部情報を修正・更新しました。

関連情報
生誕125年 萩原朔太郎展(2011年10月8日~12月4日)

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萩原葉子「父・朔太郎メモ」ノート

2013年7月11日

 萩原朔太郎の長女で作家の萩原葉子さん、葉子さんの長男で映像作家の萩原朔美さん。お二人は当館開館以来、1,600点を超える貴重な資料を世田谷区にご寄贈くださいました。今回はその中から、葉子さんのデビュー作『父・萩原朔太郎』に関連する貴重な資料をご紹介します。

人生の転機

 詩人・萩原朔太郎の長女として東京に生まれた萩原葉子(1920~2005)。9歳の頃に両親が離婚し、以後父方の祖母のもと、父の郷里である群馬県前橋市や世田谷区で不遇な少女時代を過ごします。父の死後、24歳で結婚し、長男を出産。のちに刊行される自伝的小説『木馬館』や『蕁麻の家・3部作』でも描かれているように、結婚生活も順風満帆とはいかず、人生に行き暮れていた36歳の冬の日のこと、ある人物が葉子の元を訪れます。

 そんな或る日、突然玄関の外で「朔太郎の娘の家はここか」と、男の人の声が聞えた。父の名前を呼び捨てにする人など一体誰だろうと、緊張した。朔美も緊張している。「いるのか、いないのか」と、扉をドンドン敲く。近所の家では、離婚した上に夕方からどこかへ出て行く変った奥さんと、噂されているので窓から首を長くのばして見ているのが分る。思い切って小窓を開け「どなたさまですか」と、言った。背の高い男の人は「ぼくは山岸外史と、言うものだ。扉を開けてくれ」と、言った。(中略)私の人生は、この人の来訪から大きく変ったのであった。「青い花」を発刊するので、私を同人に誘って、書かせようとして来たのだった。
 『小綬鶏(こじゅけい)の家 親でもなく子でもなく』より

 1957年2月、葉子の人生に転機をもたらす評論家・山岸外史との出会いです。

ノートに書き留めた思い出

 太宰治と戦前に発行していた同人誌「青い花」の第二次を始めようとしていた山岸外史は、葉子を同人に誘い、ここに父朔太郎の思い出を書くことを勧めます。誘いを受けた葉子は子どもの頃の記憶を辿り、思い出される出来事を一つ一つノートに書き起こしていったと言います。表紙に「父・朔太郎メモ」と書かれたこのノートはこうしたものの一冊でしょう。父の書棚に並んだ本のこと、父が出演したラジオのこと、葉子の小学校時代の作文のこと、葉子の愛読書『不思議の国のアリス』のこと、豆まきのことなど、さまざまな思い出がここに書き留められています。葉子はノートを元に父の思い出を文章にまとめていきますが、それは書いては消し、消しては書きを繰り返す苦行でした。
 こうして書き上げた最初の原稿「父の晩酌」を持って、葉子は同人誌の一回目の集まりに参加しますが、その時の様子もこのノートに記録されています。「青い花第一回作品発表会批評四月」(1957年)の書き出しで始まるそれによると、葉子は一升瓶を囲みながら大声で議論をし合う同人たちの様子にたじろぐものの、原稿は大変好意的に迎えられたようです。ノートにはこんな言葉が綴られています。

(「父の晩酌」について)
 云われたこと
 「このまま質実な質素な記録でゆくべきだ」
 「今のペースを 情熱が大切で 情熱を尽くして書くべきだ」

(「父と手品」について)
 皆一致して良いと云ってくれてほっとした。晩酌よりずっとよいと云ってくれて少し自信みたいなものができてきたが、後が続くかどうか一番心配。あまり簡単に書けてしまって、そしてほめられてあっけないみたいだ。

 二回目、三回目と開かれる発表会の記録は数ページに渡ります。詩人の娘は文章が上手いはずだと小学校で期待され、それが嫌でハガキもあまり書いてこなかったという葉子にとって、同人たちの批評は励みとなり、書くことへの自信につながります。しかしノートを読み進めていくと、始めからうまくいきすぎていることへの若干の物足りなさや不安、そして書き進めるうちに壁に突き当たり焦燥感に駆られるなど、さまざまな感情が同居する様子が伺えます。

作家の道へ

 このように苦心しながら一作一作と書き進め、同年7月に発行された「青い花」創刊号には〈父の思い出Ⅰ「父の晩酌」「父と手品」「父の戦き」〉の三作が掲載されます。発行後には室生犀星から激励のハガキが届き、大いに感激し励まされたことが著書にも記されています。同誌四号が出る頃には出版の話があり、1959年11月、父の思い出を一冊の本にまとめた『父・萩原朔太郎』が筑摩書房より刊行され、同書で第8回エッセイスト・クラブ賞を受賞します。
 不遇な少女時代、結婚生活の後、人生に行き暮れていた葉子。しかし一人の人物との出会いをきっかけに書くことを始め、さらに励まし奮い立たせてくれる仲間や先輩作家達と交流を深めていくことによって、葉子の人生は大きく切り開かれます。そして後に、『天上の花―三好達治抄』『蕁麻の家』など数々の名作を世に送り出す作家へと成長していくことになるのです。

参考文献:『父・萩原朔太郎』(中公文庫、1979年)、『小綬鶏の家 親でもなく子でもなく』(集英社、2001年)、『仮面舞踏会』(中央公論社、1980年)、『蕁麻の家・3部作』(新潮社、1998年)、『木馬館』(中央文庫、1991年)

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上/「父・朔太郎メモ」ノート表紙
中/「青い花」創刊号(1957年)
下/『父・萩原朔太郎』(筑摩書房、1959年)初版本

※「世田谷文学館ニュース」第50号(2011年12月発行)より再録。再録にあたり一部情報を修正・更新しました。

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植草甚一「USUALLY 100YEN」

2013年6月27日

『百頭女』の衝撃

 1908年、日本橋小網町の木綿問屋の長男として生まれた植草甚一は、15歳で関東大震災を経験し、震災後、モダン都市へと変貌していく東京のまっただ中で、多感な青年時代を過ごします。表現派の映画に夢中になったり、左翼にかぶれて「無産者新聞」を愛読したり、その一方で“銀ブラ”をしながら享楽的な消費文化を愉しんだり。植草流生き方の原点ともいえます。
 早稲田高等学院理工科に在籍していた19歳の頃、植草青年は、村山知義の『構成派研究』に影響され、最初のコラージュ作品を作ります。古本屋で見つけた、機械カタログの写真を使ったものでした。
 それから2年後のこと、神保町のフランス書籍専門店「三才社」を訪れた植草青年は、一冊の本に出合い、強い衝撃をうけます。パリで出版されたばかりの、マックス・エルンスト『百頭女(ひゃくとうおんな)』です。シュルレアリスムを代表する画家が生みだした、コラージュと言葉による奇怪な物語に魅了され、無理をして購入したというこの本を、毎日のように繰り返し眺めていたそうです。また、同じ頃、堀口大學が翻訳・紹介し始めたジャン・コクトーのデッサンにも惚れ込み、真似をして、コクトーばりの絵を描いていました。

「コラージュ遊び」熱、再燃

 植草甚一が本格的にコラージュ作品を作るようになったのは、『百頭女』との出合いから30年以上経った、1961年頃のことです。糖尿病のため入院していた病院で、再び絵を描き始め、このあたりから「誰にだってできるけれど、ついにエルンスト以上のものは誰にもできないコラージュ遊び*1」を再開します。外国の古い挿絵本や、新聞・雑誌を使ったコラージュを、『マンハント』や『スイング・ジャーナル』の連載、『ユリイカ』の扉頁などのために制作し、回を重ねるごとに、その凝りようもエスカレートしていきます。
 原稿の締め切りに追われるなか、「コラージュ遊び」に没頭する植草甚一は、その醍醐味について、「手元にある無関係な切抜をくっつけ合せ、それが自分の気にいるようになりながら、なにか別のものに変化してしまうときの快感にある*2」と記しています。
 さて、「USUALLY 100YEN」(=たいてい100円)と題された本作は、1968年、60歳の時に出版された自著『モダン・ジャズの発展』(スイング・ジャーナル社)の挿画に使用されたものです。「たいてい100円」を入れる大入り袋の「大入」の字の中にシンメトリーに文様を描きこみ、それを並べて、イメージを反復させた作品です。この大入袋を使うパターンは、本人も気に入っていたらしく、同様の作品を、複数制作しています。

和田誠との交流

 本作裏面には、ジャン・コクトー風のドローイングを添えたサインとともに、「To Mr.Makoto Wada」と記されています。グラフィックデザイナー、イラストレーターの和田誠さんです。(1969とあるので、この裏面の書き込みは、後に加えたものでしょう。)
 植草甚一と和田誠の出会いは、1960年頃に遡ります。当時、同時代芸術を積極的に紹介していた草月アート・センターのイベント会場で、観客として来ていた植草甚一は、「草月ミュージック・イン」などのポスターデザインをしていた20代の和田誠を紹介されます。それからというもの、植草甚一は、洋雑誌から切り取ったイラストレーションの中から、和田誠が好きそうな頁を袋につめ、会場で会うたびに、手渡していたそうです。
 和田誠がアートディレクターを務め、1965年に創刊した雑誌『話の特集』の読者カード第1号は植草甚一からでした。表紙(横尾忠則画)、執筆者、レイアウトを称賛し、第4号では和田誠の依頼をうけて自身も寄稿、1967年4月号からは連載を開始します。(~1971年9月号)
 植草甚一は、和田誠のイラストレーションを「ソウルフルな線*3」と評し、その仕事に注目していました。一方、和田誠は、植草甚一のコラージュについて、横尾忠則、山城隆一と並ぶ名人と評しています*4。「映画」「ミステリー」「ジャズ」など、共通点の多い2人の交流の一端を、本作に見ることができます。


*1 「特集・植草甚一さん」、『HEIBONパンチDELUXE』第23号(平凡出版、1969年)
*2 植草甚一「池田満寿夫とぼく」、『池田満寿夫全版画作品集』(美術出版社、1972年)
*3 植草甚一「和田誠のソウルフルな線」、『グラフィックデザイン』第35号(講談社、1969年)
*4 和田誠「コラージュの名人でした」、『植草さんについて知っていることを話そう』(高平哲郎著、晶文社、2005年)

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上/植草甚一「USUALLY 100YEN」1968年頃
中/植草甚一「USUALLY 100YEN」1968年頃 裏面・部分
下/『映画だけしか頭になかった』(晶文社、1973年) カバー・本文挿画:和田誠

※「世田谷文学館ニュース」第47号(2010年12月発行)より再録。再録にあたり一部情報を修正・更新しました。

関連情報
植草甚一/マイ・フェイヴァリット・シングス(2007年9月29日~11月25日)

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父・森鷗外の素顔―小堀杏奴旧蔵資料より

2013年6月27日

 森鷗外の二女で随筆家の小堀杏奴(こぼり・あんぬ/1909~1998)の旧蔵資料を、杏奴子息の小堀鷗一郎氏よりご寄贈いただきました。偉大な文豪でもなければ、軍服に身を固めた軍医総監でもない、家庭人としての鷗外は大変な子煩悩の側面を持っていました。今回はご寄贈いただいた資料の中から、父・鷗外の素顔に触れる資料をご紹介します。

杏奴の「小唄集」

 鷗外は五人の子どもに於菟(おと)、茉莉(まり)、不律(ふりつ)、杏奴、類(るい)と名付けました。西欧風の名前は、鷗外がドイツ留学時代、本名の「林太郎(りんたろう)」をなかなか覚えてもらえずに苦労した経験に基づきます。子どもたちには将来国際的に外国でも通用するように、外国人が覚えやすいようにという願いを込めたものでした。
 杏奴の『晩年の父』(1936年)、森茉莉の『父の帽子』(1957年)など、鷗外の子どもたちが残した随想からは、「パッパ」と呼ばれて愛された鷗外の父親像が伝わってきます。
 9歳ごろの杏奴が、半紙に鉛筆書きで作った「小唄集」には父の似顔絵と「はげ頭」の唄が書かれていました。何とも可愛く、ほほえましい資料です。

 つるつるつるつるはげ頭
 パパの頭ははげ頭
 蠅よ蠅よすべらない様に
 用心しろ

鷗外の手作り教科書「史」「地」

 杏奴命名の際、鷗外は彼女を当時では珍しい女性医師にしたかったため、「杏」は良い医師を意味する「杏林」から、「奴」は神に仕えるしもべ、という意味の漢字を選択したようです。鷗外は杏奴が小学生を卒業したら女学校に行かせず、手元で教育したいという希望を持っていたほどの教育熱心さでした。
 その姿をうかがえる資料が、鷗外が歴史と地理の知識を杏奴のためにまとめた手作りの教科書です。
 歴史の教科書は75頁の小冊子状に綴じられ、表紙には鷗外の毛筆で「史」と記されています。第1頁目「天照大神」から始まり、最終頁「欧州大戦ト我国ト―二」で終わります。1921年のワシントン会議までの記述があることから、鷗外の死の前年までに書かれたものであることが推定できます。当時、杏奴は13歳でした。鷗外はこの教科書を用い、杏奴に話しながら重要な事項を書き加えたり、人名には青色の、地名には赤色の傍線を引き、わかりやすく教えていました。
 また、鷗外最晩年のこの時期は、歴史小説から進み『渋江抽斎』などの史伝で新境地を拓いたころに重なります。鷗外自ら要点をまとめた歴史の教科書は、彼の歴史意識を研究する手掛りにもなりそうです。
 地理の教科書も同様の小冊子状で72頁から成り、表紙には「地」と、やはり筆で一文字記されています。こちらは日本と諸外国の地勢や産業、交通などが鷗外の手書きでまとめられています。
 鷗外の手作り教科書は、『晩年の父』の中で杏奴が「父は私のために歴史と地理の本を抜書(ぬきがき)して、解りやすくしてくれた。(中略)死期の迫つた父にとつて、そうする事はきつと辛い面倒な事だつたに違いない。併し父は老年の自分の後に残る私を出来るだけ助けて、少しでも育ててゆきたかつたのだろう」と述べていることから、存在については以前から知られていました。杏奴の没後、ご家族が遺品を整理された際にその実物が見つかり、当館にご寄贈いただきました。腎臓病に苦しみ、日々体力が衰えていく中でも変わらず、子どもたちに男女わけへだてない愛情を注ぎ、教育に尽力した父・鷗外の姿を目の当たりにできます。
 鷗外の手作り教科書「史」、「地」は、当館ライブラリーに設置された端末から、全頁画像閲覧が可能です。

参考文献:『鷗外の遺産』(幻戯書房)、小堀杏奴『晩年の父』(岩波書店)、森茉莉『父の帽子』(新潮社)ほか

写真
上/杏奴の「小唄集」
下/鷗外の手作り教科書「史」(部分)

※「世田谷文学館ニュース」第40号(2008年8月発行)より再録。再録にあたり一部情報を修正・更新しました。

関連情報
父からの贈りもの 森鷗外と娘たち展(2010年10月2日~11月28日)

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「新青年」―江戸川乱歩、横溝正史を生んだモダン雑誌

2013年4月3日

時代をリードした雑誌

 1920(大正9)年から1950(昭和25)年まで発行され、ミステリー作家・江戸川乱歩、横溝正史がデビューした雑誌が「新青年」です。しかし、「新青年」はミステリー専門誌ではなく、昭和初頭にはファッション、映画、スポーツなど先端の情報にミステリー、コラムなどモダンな読み物が呼び物となり、時代を一歩リードする雑誌としても知られます。また、多くの執筆者を輩出し、多面的な魅力を持った雑誌でした。

青年をひきつける雑誌

 「新青年」は、1920(大正9)年、当時の出版界の雄で「太陽」「文章世界」「冒険世界」など多くの人気雑誌を発行していた博文館より創刊され、当初は立身出世を目指す青年に向けて、軍人、実業家ら成功者の話、新しい科学技術知識、海外への入植や移民(当時「海外雄飛」と呼んだ)の情報など、上昇志向の教養主義と世界への憧れを満たす内容を柱とする計画でした。
 ところが、初代編集長・森下雨村は翻訳探偵小説に力を入れ、一冊丸々翻訳探偵小説の増刊号を出すなど、徐々に探偵小説の比重が大きくなります。当時の探偵小説は今のミステリーの範疇よりも広く、怪奇小説、SF、幻想小説、ショート・ショートなども含まれました。近代都市の成熟と共に発展する探偵小説は科学と合理主義の文学的産物ですが、科学で解明できない謎や変態を扱い、大正期には一般的になる心理学なども取り込み、時代の空気に敏感な青年を惹きつける要素が多分にありました。更に森下編集長は国産の探偵小説を生み出すことが人気拡張の鍵と考えます。これに応えて登場したのが、懸賞応募で創作の道に入る横溝正史であり、「二銭銅貨」でデビューする江戸川乱歩です。さらに、甲賀三郎、大下宇陀児、海野十三、夢野久作、木々高太郎、久生十蘭、小栗虫太郎、渡辺啓助ら戦前の探偵小説を彩る綺羅星のごとき才能が陸続とこの雑誌から生まれます。

多彩な執筆人、多才な編集者

 「新青年」を一層モダンに刷新したのは1927(昭和2)年3月号から翌年9月号まで第二編集長を務めた横溝正史と編集部の渡辺温でした。神戸で生まれ育ち海外の出版物に親しんでいた横溝は、鋭い感覚で服飾、教養、趣味の先端を紹介するコラムや読物、漫画などユーモアとナンセンスを導入、松野一夫の表紙画やロゴ、レイアウトにはモダンデザインを取り入れ、大正から昭和への時代の変化を明るく軽快に表しました。その後も編集部の幅広い目配りで萩原朔太郎、内田百閒、井伏鱒二らが寄稿、川端康成、稲垣足穂といったモダニズム作家の多くが執筆する一方で、左翼系の作家も書きました。また、劇作家の岩田豊雄は「獅子文六」という筆名でユーモア小説を発表、徳川無声、柳家金語楼など他分野の才人も登場させます。深尾須磨子ら女性作家もしばしば起用され、多彩な執筆陣が翻訳作品と競いました。谷崎潤一郎も才能ある作家でもあった渡辺温の死を悼み、彼の依頼を受け、後に「武州公秘話」を寄稿します。ほかにも、延原謙、水谷準、乾信一郎など編集長、編集者の顔ぶれにはミステリー作家、翻訳家として知られる名前が並んでいます。

横溝正史所蔵の「新青年」

 当館では現在、「新青年」を約650点収蔵しています(復刻版含む)。そのうち約250点は横溝正史が所蔵していたものです。傷みが激しかったり切抜きのあるもの(コピー機が無い頃、出版するために掲載誌を原稿としたようです。)もあるので、当館ライブラリーでの閲覧には主に復刻版の利用をお勧めしています。前述の「新青年」の魅力は復刻版でも堪能していただけます。とはいえ、横溝正史旧蔵「新青年」ならではの、復刻版にはない見所もありますので、その一例を最後にご紹介しましょう。

「鬼火」無削除版

 デビュー以来、ウィットとペーソスの効いた作品を得意とした横溝正史が、1933(昭和8)年の「面影双紙」から作風を一変させ、妖艶、幽美と評される耽美的な作品で新境地を開きます。そして、「新青年」1935(昭和10)年2月号と3月号に戦前の代表作に数えられる中篇「鬼火」を発表します。しかし、この作品は印刷後に当局の検閲を受け、部分削除を余儀なくされました。その結果、2月号は37頁から46頁まで削除され、この部分は復刻版でも欠落しています。「鬼火」はその後、著者により改訂され、同年単行本『鬼火 探偵小説短篇集』(春秋社)に収録されました。以来、1972(昭和47)年に出版された『鬼火 完全版』(桃源社)まで削除部分が公になる機会はありませんでした。しかし、横溝の手許には削除前の掲載誌が残されていたため、オリジナルの文章が掲載されたこの号を収蔵することができました。横溝が闘病中に三ヶ月かけて書き上げたというこの作品の最初の完成稿はこの「新青年」で読むことができ、この文章に添えられた竹中英太郎の挿絵もまた見応えがあります。改訂版との読み比べも、検閲による削除から作品を救いあげて高い評価を勝ち得た横溝の文学世界を再考するうえで、またとない貴重な示唆を与えてくれることでしょう。

写真 上/「新青年」1927(昭和2)年3月号 下/「新青年」1935(昭和10)年2月号

※「世田谷文学館ニュース」第24号(2003年4月発行)より再録。再録にあたり一部情報を修正・更新しました。

関連情報
世田谷文学館開館記念展 横溝正史と「新青年」の作家たち(1995年4月1日~5月7日)

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作家誕生の物語―北杜夫『幽霊』(自費出版本)

2013年4月2日

『幽霊』出版までの経緯

 作家の処女作には、出版にいたるまでのその作家ならではの物語があります。
 「どくとるマンボウ」シリーズや『楡家の人びと』など本格小説で人気の作家、北杜夫の処女出版作『幽霊』は、1953~1954(昭和28~29)年に同人誌「文藝首都」に分載された後、長編作品として1冊にまとめられました。
 北杜夫、本名齋藤宗吉は、1927(昭和2)年、医師で歌人の齋藤茂吉の次男として誕生しました。松本高校時代にトーマス・マンの作品と父の歌集を読んで感動し、文学を志しました。しかし茂吉が医師の道を強く希望したこともあって東北大学医学部に進学します。
 父の希望どおりに医師の道を歩き始めても、文学活動への意志が変わることはありませんでした。慶應義塾大学医学部のインターン時代には「文藝首都」の同人として活動し、ここで、佐藤愛子、田畑麦彦、同じく慶應義塾大学でインターンをしていた、なだいなだと出会います。
 医局での仕事を続けながら創作活動を続けていた彼は、処女作出版の準備を進め、1954(昭和29)年、母親に資金繰りをして『幽霊』を自費出版しました。費用を節約するために、同時期に出版した田畑麦彦『祭壇』と同じ装幀にしています。
 北杜夫は当時を振り返って次のように記しています。

 初めは長篇でなく、第一章の母がいなくなるという夜を結末とした短篇として書かれた。それが四章の長篇になったのは、私の内奥とこの作品がその後の大多数の作品にもまして密接につながっていたからだと思う。
 「創作余話」(『北杜夫全集』月報12)より

 1945(昭和20)年終戦の頃、高校生の「ぼく」に甦る幼少時の追憶。過去を見つめ、隠された幼少期の記憶から深層意識をさぐるこの作品は、まさに、作家北杜夫の原点となったのです。

『幽霊』に寄せられた反響

 文芸評論家の奥野健男は、自宅に届けられた『幽霊』と田畑麦彦の『祭壇』をみた第一印象を、「題名が不気味で、そう言えば薊(あざみ)の花かなんかを書いたカバーは、仏壇にそなえてある花みたいに陰気くさく見えた」(『幽霊』新潮文庫解説より)とユーモラスに述べています。しかし実際手にとって読んだ作品には、大きな衝撃を覚えたといいます。

 ――この冒頭の文章が、たちまちぼくの心をとらえてしまった。(中略)西欧風の文体とも言おうか、けれどいわゆる翻訳調ではない。沈んだ静かな調子の中に、ある透き通った響きを、輝かしいきらめきを感じたのである。
 前掲書より

 実は奥野健男は、麻布中学校時代の北杜夫の理科学部員の先輩でした。しかし『幽霊』出版当時はお互いに文学にたずさわっていることを知らずにいたのです。北杜夫が齋藤宗吉と同一人物であることをようやく知った奥野は、中学時代に昆虫に夢中だった齋藤宗吉の姿を思い出し、『幽霊』のいたるところにちりばめられる昆虫や草花への深い洞察と表現は、まさに彼ならではのものだと納得したといいます。
 また作品は、日本文学の研究者デニス・キーンにも強い衝撃を与えました。一読してこれこそ日本近代文学の代表作だと確信した彼は、初めて読んでから25年の月日を費やして、英訳本『Ghosts』(講談社インターナショナル、1991年)を完成させました。

「心の神話」を描く北杜夫作品

 人はなぜ追憶を語るのだろうか。
 どの民族にも神話があるように、どの個人にも心の神話があるものだ。その神話は次第にうすれ、やがて時間の深みのなかに姿を失うように見える。――だが、あのおぼろな昔に人の心にしのびこみ、そっと爪痕(つめあと)を残していった事柄(ことがら)を、人は知らず知らず、くる年もくる年も反芻(はんすう)しつづけているものらしい。そうした所作は死ぬまでいつまでも続いてゆくことだろう。
 『幽霊』第1章より

 北杜夫は1960(昭和35)年、『夜と霧の隅で』で芥川賞を受賞してから本格的な作家生活にはいりますが、処女作『幽霊』の冒頭分に記される「心の神話」は、その後の文学活動の中でもさまざまな形で表現されていきます。
 北作品の読者は、本人いわく「幽霊」派と「マンボウ」派の二種類にわかれるようです。しかし実際は、「どくとるマンボウ」シリーズのたぐいまれなユーモアを楽しむ一方、『幽霊』の詩世界をたゆたうように作品に引き込まれてゆく体験、両方を北作品の世界と感じ、魅せられている読者も多いのではないでしょうか。
 当館では、北作品の軌跡を物語る、学生時代に書き記したノート、「どくとるマンボウ」航海で使ったトランク、登山用具、「茂吉」四部作の原稿など貴重な資料とともに、作家の第一歩を記した『幽霊』自費出版本を、2000年に北杜夫氏よりご寄贈いただきました。この一冊の本ほど作家・北杜夫の誕生を雄弁に語るものはないでしょう。

写真/『幽霊』(文芸首都社、1954年10月)

※「世田谷文学館ニュース」第25号(2003年8月発行)より再録。再録にあたり一部情報を修正・更新しました。

関連情報
北杜夫展(2000年9月23日~11月5日/世田谷文学館)
齋藤茂吉と『楡家の人びと』展(2012年10月6日~12月2日/世田谷文学館)

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「キネマ旬報」

2013年4月1日

 雑誌「キネマ旬報」は映画が「活動写真」と呼ばれていた大正期から今日まで、90年以上にわたって、わが国の映画ジャーナリズムをリードし続けてきました。ファンから専門家まで幅広い要求に応え、信頼のおける映画専門誌というだけでなく、第一級の映画史料としての役割も果たしています。その誌面は、公開された外国映画・日本映画全作品の丹念な紹介をはじめ、観客の動向を的確につかんだ特集、監督や俳優ら映画人へのインタビュー、トップクラスの評論家による映画批評、興行に関する詳細なデータ等を網羅しています。

 「キネマ旬報」第1号は、1919(大正8)年7月11日に、東京高等工業学校(現・東京工業大学)の学生・田中三郎、田中幸彦ら四人の手により刊行されました。彼らはまだ20歳の若者で、最初は熱心な映画ファン、というだけだったのですが、次第に映画熱が高じて、日本初の映画批評誌を作ろうと思い至ったのでした。当初は、アート紙2枚折4ページのリーフレットのような体裁で、月3回発行、ブロマイド店に委託販売していました。その後、映画産業の飛躍的な発展を背景に、徐々に評論誌として充実していきます。
 その評論面での大きな功績のひとつがベストテンの設定です。〈キネ旬ベストテン〉は現在国内においてもっとも権威のあるベストテンとされていますが、そのはじまりは「高級愛活家」と呼ばれる一般読者の投票によるものでした。第1回の結果が館蔵の1925(大正14)年2月1日号に掲載されています。前年に封切られた外国映画のうち、「芸術的」と「娯楽的」、それぞれ最も優れた映画として読者が選んだのは、『巴里の女性』(C・チャップリン)、『幌馬車』(J・クルーズ)でした。投票総数約千票、今と変わらぬ映画ファンの思いが伝わってきます。第3回からは日本映画のベストテンもはじまりました。
 ファンがもう一つ楽しみにしていたものとして折込広告がありました。1925(大正14)年からはじまった折込広告は、映画会社がそれぞれ「キネマ旬報」の発行部数分印刷した広告を、製本の際に、はさみこんだもの。各社ともデザインや紙質に工夫を凝らしていました。
 写真は1940(昭和15)年7月11日号の折込広告。この広告は当時ユナイト社に勤務していた淀川長治が宣伝活動の傍ら、タイトルデザインも含め、みずからレイアウトしたものとか。ジョン・フォード監督『駅馬車』が公開されたのは6月29日。その二週間後に、はやくも封切初日の盛況ぶりが広告として伝えられているのです。新宿武蔵野館の写真には「一五〇〇人の殺到者!」とあります。『駅馬車』は記録的な大ヒットとなり、淀川氏は、この映画のプロデューサーから銀時計を贈られました。映画という文化が、それにかかわる人々はもちろんのこと、いかに多くの観客によって支えられてきたかを実感させられます。

 さて、「キネマ旬報」は、創刊号から完全にそろえることは大変困難とされ、特に大正期の号は1993年に刊行された復刻版によってようやくその全貌があきらかになったのですが、当館では1996年に、当時区内にお住まいだった故・小林龍男氏のご厚意により1924(大正13)年から1940(昭和15)年までの発行分のうち、392冊ものご寄贈をいただきました。手製のバインダーに丁寧に綴じられた大正期「キネマ旬報」を見たとき、職員の口から思わず嘆声がもれたのはいうまでもありません。
 これと前後して故・児玉進監督が旧蔵しておられた昭和21年3月再建第1号から59年までのバックナンバーを、ご遺族がご寄贈くださいました。小林氏が別にくださった昭和60年代以降の号とあわせ、完全ではないものの、「キネマ旬報」が文学館に一挙にそろうことになったのです。
 「キネマ旬報」バックナンバーは一部傷みのはげしいものを除き、当館ライブラリーで閲覧できます。

写真/「キネマ旬報」1940(昭和15)年7月11日号折込広告『駅馬車』

※「世田谷文学館ニュース」第6号(1997年4月発行)より再録。再録にあたり一部情報を修正・更新しました。

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