悲しみの太宰 5-3
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多くの研究者が指摘するように、太宰のなかでキリストとの自己同一化という傾向が現れはじめるのは、芥川賞落選によるショックを受けた時期のことで、佐藤春夫宛ての手紙で、彼は千葉県船橋の住まいを「ゴルゴダの丘」と名づけたほどだった。そしてこのキリストとの同一化は、何よりも、信頼する「先輩や友人にあざむかれ」「むりやり狂人の刻印を押された」恐るべき屈辱の体験によって強化された。強制入院という事実はまさに、「終生ぬぐいきれないぼくの痛手」(山岸外史「太宰と武蔵野病院」)と化した。しかも、傷だらけの彼に追い打ちをかけるように、裏切られた「キリスト」の「痛手」にもう一つ別の「痛手」が加わった。画学生との初代の不義の「認知」である。
ではなぜ、太宰のうちで、キリストとの一体化が、ユダとの同一化に転じてしまったのか。この謎を解き明かすには、小説が構想された時期の彼の精神状態を正確に把握する必要がある。別れた妻の初代を「姥」に見立てることのうちには、ユダとしての太宰の隠された演技と事実の隠蔽があった。「姥捨」は、現象そのものとしては「殺人」である。彼がこの道行きの物語を「姥捨」のタイトルで集約させた事実は、太宰の内面で、一種の初代殺しと「事実」の隠蔽が同時に行われていたことを物語っている(「ああ、もういやだ。この女は、おれには重すぎる。いいひとだが、おれの手にあまる」)。
再び伝記的事実に目を向けてみよう。
昭和一三年夏、太宰は、ほぼ二年近いスランプの時を経て、ようやくこの「姥捨」の執筆を思い立った。整理してみよう。
昭和一一年秋、初代、画学生と密通
昭和一二年三月、初代の不倫を認知。
昭和一二年三月、谷川温泉で初代と心中未遂
昭和一三年夏、「姥捨」の執筆
昭和一三年十月 「姥捨」の発表
昭和一三年十一月、石原美知子と婚約
それから四カ月後の十一月、井伏鱒二を親代わりとして太宰は石原美知子と婚約した。すべての私生活を小説化してきた彼にとって、自分の秘密を守りぬくことはつねに不可能に近い状況にあった。周知のように、井伏が紹介してよこした美知子は、太宰の読者だった。新しい読者の前で、この近過去のドラマを清算し、告白し、演技しぬくか。彼は、新しい課題を突きつけられていた。答えは、悪役の意味を内面的なレベルから歴史的なものへと転化させ、カムフラージュすることにあった。夜汽車のなかでの独白は、けっして「あやまった人を愛撫した妻」への弁明ではない。彼は、もっとも近い過去の罪をめぐって、自分がけっして最終的には傷つくことができない存在であることを宣言してみせなくてはならなかったのだ。「姥捨」の最後の一行、「かず枝も、かあいそうだね」という叔父のセリフに対する嘉七の、「その都度、心弱く、困った」という一行には、この心中行を道化芝居に見立てようとする太宰のしたたかな計算が見てとれる。(つづく)