2026 6/10

悲しみの太宰 7-3

エッセイ

 では、ユダが密告する理由とは何なのか? 福音書には、少なくともその動機を解きあかしてくれる記述は見当たらない。福音書に語られているのは、たんに事実だけであり、事実は解釈を求めている。かりに動機らしきものを見出すとすれば、祭司長たちが「金を与える約束をした」ことぐらいだろう。しかし、密告という最終的な決断へとユダを促したのは、太宰自身も引用している「裏切る者は不幸だ。その者は生まれなかったほうがよかった」(マルコによる福音書一四章二一節)というひと言だった。この台詞につづくイエスの一連の行為、「パン切れを浸して」、「ユダにお与え」になる行為、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」という言葉――、これらの言動のいずれもが冷徹をきわめる。「密告」の覚悟を固めたユダの台詞に耳を傾けよう。

  永遠に解け合う事の無い宿命が、私とあいつとの間に在るのだ。

 これは、多くの読者が共有している印象だと思うのだが、「駈込み訴え」でユダが執拗に強調する「密告」の奥には、イエスの「残酷さ」や「意地悪さ」が見え隠れする。「共有」を宿命づけられた者の「恨み」が渦巻いているとはいえ、そうした太宰の「翻案」は、むろん福音書にはない色づけの部分である。いや、イエスとユダの決裂の部分を福音書で読んだ太宰が、端的に違和感を覚えた部分ではなかったろうか。イエスと同じ「三十四」歳のユダの本心は、どこまでも、イエスとの一対一の対峙というより、さらに進んだ関係の成就にあったと見ていい。だが、イエスは、そうしたユダの期待をことごとく裏切った。
 要するに、太宰によれば、イエスはユダにたいして冷たすぎるということである。太宰がこうした理解に向かう背後には、おそらく、彼自身が抱えていたある種の相対論が影を落としていた。太宰自身が、ユダに同化しつつ、裏切られるイエスをも演じようとしていた。「姥捨」の中ですでに次のような一行を残していたのを思い出そう。

  私は、歴史的に、悪役を買おうと思った。ユダの悪が強ければ強いほど、キリストのやさしさの光が増す。私は自身を滅亡する人種だと思っていた。私の世界観がそう教えたのだ。(「姥捨」)

 「姥捨」における相対論には、グノーシス的なユダ理解が息づいている(「ユダの福音書」の流れにある)。イエスに迫りつつある運命を察知したユダが、イエスに課せられた十字架の使命を果たすべく取りはからった、だからユダもまたイエスとともに神の栄光に与るべき存在だという解釈である。だが、少なくとも「駈込み訴え」を見るかぎり、そうした相対論は大きく後退している。強調されるのは、むしろ相対論を超えたところにある、より生々しい愛憎のドラマである。同時に主人公の道化性も後退している。吉本隆明の文章を引用する。

  ユダには太宰の自画像が象徴化され、イエスは太宰の理想像として象徴化されているともかんがえられる。あるいはユダとイエスを一人格のなかに同居させることが、太宰の理想の人格像だったと言えるのかもしれない。(吉本隆明「読書の方法――なにを、どう読むか」光文社文庫)

 思うに、自画像と理想像が一体化する道、ユダがイエスと「肩を並べて立ってみせ」る道は一つしかなかった。物語の終わりに近い次の一節が暗示するのは、最終的ともいうべき密告の動機づけである。

  あの人は、どうせ死ぬのだ。ほかの人の手で、下役たちに引き渡すよりは、私が、それを為そう。きょうまで私の、あの人に捧げた一すじなる愛情の、これが最後の挨拶だ。私の義務です。私があの人を売ってやる。つらい立場だ。誰がこの私のひたむきの愛の行為を、正当に理解してくれることか。(「駈込み訴え」)

 この、「ひたむき」な告白から聞きとれるのは、死を介しての一体化の成就であり、二重性の勝利である。この徹底した道化的傲慢さにこそ、太宰がどこまでも求めてやまない、あるいは永遠に理想化された心中のロマンティシズムがあったのではないか。(つづく)

Category

世田谷文学館のホームページに戻る