2023 12/15

眩しい光、自由の影 2

エッセイ

椎名鱗三のアナーキー

 7

 では、『懲役人の告発』が、現代に残した問いとは何か。これは、たんなる私見だが、二十一世紀の今ほど、人間が、無際限の自由を勝ち得ている時代はないといえる。ただし、それはあくまでも、AI、ICTテクノロジーの想像を絶する進化が約束する仮想現実での話である。はたしてそれを自由と呼ぶことができるのか、あるいはそれはたんなる自由の幻影なり錯覚なりにすぎないのか。じつは、その見極めがつかないという点に、私たちの時代の恐怖が存在する。ドストエフスキーは、『カラマーゾフの兄弟』のイワンに託して「神がなければ、すべては許される」という一言を放ったが、そうしたイワンの予言に、今や耳を貸すものはだれもいない。その予言は、少なくとも、仮想現実のレベルでは、すでに現実と化してしまったからである。つまり、一線は完全に破られた。インスタグラムやYouTube、TikTok上にアップされる稀少な映像は、いままで私たち人類が映像として、つまり視覚的に共有できなかったレベルに達している。しかもそれらの多くは生成AIによるごく初歩的なトリック芸にすぎないというではないか。こうして仮想と現実の見きわめを失った目は、完全な自由を与えられる。にもかかわらず、自由と禁忌の距離がますます遠ざかりつつある。長太郎が夢見た「触れる」歓びは、永遠に許されざる禁断の営みと化してしまった。いや、禁断の実はもはや禁断の実ですらなくなり、人間は、もはや生存に不可欠な欲望すらもちないまま、自由の奴隷として日々生きているのが現実である。
 他方に、いやます自由の妄想に苦しめられている人間もいる。彼らは、妄想が膨らめば膨らむほど、自由に通じる道は細くなるのを実感している。長太郎がまさにその典型である。福子を凌辱し、そこに「眩しい光」を見て神を感じた彼は、まさに現代に生きる、貧しい私たちの妄想の集合的な犠牲者だともいえる。その罰として自害する勇気を持ちえた彼は、最終的には一線を意識することのできた人間であり、その一線を超えることで、思いもかけず「目映い光を見」ることができたが、とはいえ、彼を善悪の彼岸に立つ超人と呼ぶわけにはいかない。むしろ、自由に幻惑され、つかのまの神の幻想に与ったちっぽけな「死者」にすぎない。だが、同じ自由という幻想を胸に抱きつつ、今、どれだけ多くの人間が禁断の木の実の前で立ち往生を強いられていることか。新しい時代の疎外は、まさに、誘惑と禁忌というダブルバインドのなかに私たちを落とし込みつつある。私たちは限りなく自由であるが、現実には禁忌の木の実ひとつ食することのできない哀れな動物である。その意味では、私たち全員が「懲役人」であり、マゾヒストであり、妄想の奴隷なのである。いわば、そうした現代の悲惨なありようと予言する書として『懲役人の告発』は今、ある。(完)

参考文献
❶椎名鱗三『懲役人の告発』、新潮社、1969年。同附録冊子、対談、野間宏×椎名鱗三。
❷椎名麟三『私のドストエフスキー体験』、教文館、1967年。
❸椎名麟三『深夜の酒宴・美しい女』、講談社文芸文庫、2010年。 
❹『椎名麟三の思想』、姫路文学館紀要特別号1 2022年。
❺尾西康充『椎名麟三と〈解離〉-戦後文学における実存主義-』、朝文社、2007年。

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