2026 6/3

悲しみの太宰 7-2

エッセイ

 作家として本格的デビューを果たしてから五年、芥川賞をめぐるごたごたや、既存の文壇との葛藤に疲れ、内縁の妻をめぐる三角関係のもつれから心中事件を起こした太宰は、その後約一年筆を絶ち、深く聖書の世界をさまよった。一九三八年、井伏鱒二の仲人によって実現した石原美知子との結婚は、彼の生涯にまれにしか訪れることのなかった平穏な一時期をもたらしてくれた。
 この時期、太宰は、それまでになかった一つの実験を試みている。それは、いわゆる私小説ジャンルからの一時的退避である。蜜月という、私的な事情もあったのだろう、自分の人生を率直に、赤裸々に語ることには危険が伴ったし、しばらくはそれに触れるべきでないという、倫理的直観が働いたとも想像できる。同時にまた、作家として新境地を切り開きたい、風向きを変えたいという願いが強まった可能性も当然ある。興味深いのは、この精神の凪の時期に「翻案家」の彼が向かった先が、古代の神話や古典だったことである。
 具体的には、いずれも、彼の代表作として知られる作品で、一に、福音書に取材した「駈込み訴え」(一九四〇月二月)、二に、ギリシア神話のエピソードとドイツの「シルレル」の詩をもとにした「走れメロス」(一九四〇年五月)、そして三が、シェークスピアの原作による「新ハムレット」(一九四一年)である。いずれもが、太宰が得意とした人間における信と不信のぎりぎりのせめぎ合いを扱った作品だった。
 では、ユダの裏切りをテーマとした「駈込み訴え」で、太宰が元プロット(=福音書)に加えた翻案の中身とはどのようなものだったか?
 小説の冒頭で読者は、イエスにたいする愛と憎悪に揺れうごくユダの生々しい内面をつぶさに目撃する。音楽にたとえるなら、第一主題は、憎悪である。

  あの人は、酷い。酷い。はい。厭な奴です。悪い人です。(「駈込み訴え」以下同)

「駈込み訴え」そのものは、文庫本でわずか二〇頁にも満たない小品だが、そのなかで、ユダの「内心」は、「三たび、どんでん返し」をくり返す。祭司長を前にした密告が、極度の興奮状態での告白でもあることを物語っている。
 第二主題は、愛。ユダの告白は、ほとんど同性愛的といってもよい灼熱に満たされている。

  私はあなたを愛しています。ほかの弟子たちが、どんなに深くあなたを愛していたって、それとは較べものにならないほどに愛しています。

 この一方的な思いは、当然のことながら、一使徒としてイエスの「共有」を運命づけられたユダの鬱積する思いそのものであり、「私有」へのエゴイスティックな願望と、「共有」の甘受とに大きく引き裂かれている。興味深いのは、イエスを見つめるユダの愛に、猛々しいエロスの発露はあっても、崇高な感覚に近い内心の表明がないことである。彼は、生身の身体としてイエスを見ている(「私は天国を信じない。神も信じない。あの人の復活も信じない。なんで、あの人が、イスラエルの王なものか」)。それゆえ、イエスが予見する「終末」の幻想を共有することはなく、それ自体がユダの目には「狂気」の沙汰と映る。

  あの人は、狂ったのです。(中略)饑饉があるの、地震が起るの、星は空より堕ち、月は光を放たず、(中略)実に、とんでも無い暴言を口から出まかせに言い放ったのです。(中略)思い上りも甚しい。(中略)もはや、あの人の罪は、まぬかれぬ。必ず十字架。それにきまった。

 だが、ユダの「密告」には、もう一つ別の動機、すなわち、マグダラのマリヤをめぐる三角形的欲望がひそんでいたことも明らかになる。ジラールのいう、《欲望の模倣》がユダの脳裏にきらりと影を落とす瞬間に注意したい。マリヤが、ナルドの香油を満たした石膏の壺をかかえて饗宴の部屋に入り、イエスの頭から「ざぶと注いで御足まで」油で濡らす場面である。この不作法をめぐって、ユダは、「さんざ」マリヤを叱りつけるが、イエスはそれを制止し、マリヤをかばう。ユダは、そのときのイエスの表情に不純の光を見る。

  その時、あの人の声に、また、あの人の瞳の色に、いままで嘗つて無かった程の異様なものが感じられ、私は瞬時戸惑いして、更にあの人の幽かに赤らんだ頰と、うすく涙に潤んでいる瞳とを、つくづく見直し、はッと思い当ることがありました。ああ、いまわしい、口に出すさえ無念至極のことであります(中略)危い、それに似たあやしい感情を抱いたのではないか?

 だが、密告という行為のもつ異常性に煽られたユダの内面は、このマリヤに対する感情においても分裂をくり返す。「これ迄どんな女にも心を動かしたことは無い」と断言する一方、ユダは、次のようにわめき散らす。

  あの人は、嘘つきだ。旦那さま。あの人は、私の女をとったのだ。いや、ちがった! あの女が、私からあの人を奪ったのだ。ああ、それもちがう。私の言うことは、みんな出鱈目だ。

 ひと言で、支離滅裂としかいいようがない。要するに、ユダ自身、「密告」に走るみずからの内面のうごめきや欲望の実体を完全に把握しきれていないのである。(つづく)

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