2026年04月
悲しみの太宰 5-1
「ユダの悪が強ければ強いほど、キリストのやさしさの光が増す」(「姥捨」)
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太宰治は、根源的な罪の意識にさいなまれつづけた作家である。それが何かしらの幼児体験に起因する後天的な資質かどうかを見極めるには、精神分析の助けを俟つほか手はない。そしてあらかたは、フロイトのオイディプス・コンプレックス理論の説明でかたがつく。思うに、幼少時代から苛まれていたと想像されるこの特異な意識は、逆に罪に屈したいという願望と紙一重だった。少し古めかしい言葉を用いれば、背徳の快楽。さらに言葉を重ねるなら、この背徳の願望がかたちを変えたのが、彼の道化癖だったということができる。いずれにせよ、太宰において罪の意識と罪を犯すことへの誘惑とは切っても切れない関係にあった。罪を犯すことが魅力的に映るからこそ、罪の意識を感じるのだ。しかし、いずれ年とともに、罪の意識は宿病のように彼にとりつき、罪の誘惑が消えたあとも執拗にそこにとどまりつづけるときが来る。なぜなら太宰にとって、不断に罪を犯しつづけることが自らの生命力の保持を意味し、罪を犯さないという状態は精神の死を意味したからである。思うに、太宰のように、根源的な罪の意識を抱えた人間には、一つの普遍的な資質がある。それは、自分の罪にたいしては寛容でも、他者の罪にたいしては不寛容に傾きがちな点である。理由は一つ。他人が犯す罪のロマンティシズムに惹きつけられているからである。そこにはルネ・ジラールのいう「模倣の欲望」のメカニズムが働いている。端的に言うならば、疎外。疎外された人間が抱く妄想。それこそが人間心理の極みであり、少なくとも太宰にとってそれが最大の「躓き」となった。
さて、還暦をむかえてようやく太宰と本格的な再会を果たすまで、私は荻窪という街に何かしら文学的な関心を抱いたことがなかった。荻窪は、たんに、私の大学通勤の中継地点であるにすぎなかった。練馬・富士見台の自宅を自転車で出て下井草の踏切を越え、天沼の細い路地をジグザグにぬけて駅前に達し、そこで中央線に乗り込む。荻窪や天沼の一帯は、比較的きつい高低差があって、日々の自転車通勤にはかなり難儀したが、若者たちの姿が目立つ西荻窪、阿佐ケ谷、高円寺とは一風異なる、どことなく大人びたたずまいがけっこう気に入っていた。ある日、通勤ルートからわずかながら外れた天沼三丁目に、太宰ゆかりのアパートがあると知って改めて足をのばしてみた。波乱に満ちた人生においてもひときわ強く記憶にのこる舞台は、人間の背丈ほどもある石燈籠がのぞく奥深い生垣の向こうに、神話的という言葉にあまりなじまないごく日常的な雰囲気を漂わせていた。檀一雄が書いている。
帰京してみると、太宰は、荻窪の碧雲荘に移っていた。碧雲荘と書くと、堂々たるアパートに聞えるが、実は全く和室の二階八畳の、間借りだった。ただ、階上に炊事場が一部屋あって、間借りでも随時、炊事出来るという状況である。(壇一雄「小説 太宰治」岩波現代文庫) (つづく)