2022年04月

2022 4/29

「ボクはどこにいるんだ」―究極のツィート

どこか隠れ家を思わせる迷宮に変身したセタブン二階の大展示室。そこで小さな「奇跡」に出合った。ぼくにはどうみても「奇跡」という言葉でしか語りようがない。この四月に始まった大規模展「ヨシタケシンスケ展かもしれない」の印象である。無造作に設えられた展示室入り口で、何やら奇っ怪なオブジェたちの出迎えを受けた。いったい何がはじまるのか、と怪訝な思いにかられながら左に折れると、そこはもう別世界。ハガキ大の白い「短冊」(敢えてそう呼びたい)が、高さ3メートル、横幅9メートルほどある壁面をびっしり覆いつくしている。しかもそれら一つひとつに、子どもたちと大人たちによる片言隻句の愛らしい会話が書きこまれている。「生きるのに理由はいらないが、死ぬのには理由がいる」―。大人の渋い嘆きに続いて子どもが襖から顔をのぞかせる。「ボクはどこにいるんだ」。なかなかシリアスな「やりとり」だが、これぞまさしく「ツィート」の真骨頂ではなかろうか。本気を出してすべて読み倒そうと決心し、かりに一週間セタブンに通いつめても、最後まではとうてい辿りつけないだろう。驚くべきなのは、この「短冊」のアイデアには既視感と呼べる何かがいっさい伴わないことだ。人間ってこんなことが考えつけるのだ、ほんもののアートはこうして生まれ、無条件に人を納得させてしまうものなのだ。そんな素直な感動が押し寄せてくる。日々、悲惨な映像に慣らされた目と耳が、どれほど癒しを求めていたかも改めて発見できた。パソコン画面のTwitterでは経験できない生命のぬくもりとうごめき。そして何よりうれしいのは、それが日本語で綴られている点だ。打ち寄せる言葉のさざ波に目と耳を浸しているうち、ぼくの心のうちでふと悪い教師本能がめざめてしまった。ああ、この一枚一枚の「短冊」を、私の教え子たちに届けたい。今のぼくに、この「短冊」に記されたツィート以上に生きたメッセージは何ひとつ送り届けられないような気がする。

  

「ヨシタケシンスケ展かもしれない」会場風景            ©Shinsuke Yoshitake

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