2024年10月
フョードル・カラマーゾフを殺したのはだれか Ⅴ
(5) 新たな「逸脱」へ
ラズーモフによれば、この新しい真犯人探しとスメルジャコフの自殺の謎解きこそが、着手されずに終わった「第二の小説」の主要部分を構成するはずだったという。ラズーモフ自身、どこまでまじめに自説を信じているのか、頭を傾げたくなるが、反復というのは、恐ろしい。スメルジャコフ完全無罪論、ラキーチン犯人説の「根拠」を延々と聞かされるうち、おそらく読者は洗脳され、「常識」に狂いが生じていく。詩人ウラジーミル・マヤコフスキー謀殺説の資料を読んでいたときに私の身に起こったのと同じ異様な状態である。ラキーチンを既存の犯人捜しのプロットにまるごと取り込むのは、困難だという冷静な判断が頭のどこかにある。しかし、ひょっとして、という思いもある。その思いが徐々に積み重なり、ラキーチン真犯人説へと傾いていく。これこそは、ラズーモフの身にも起こった現象であったに違いない。
カラマーゾフ家の破綻をこの目で観たいという欲望にかられているラキーチンであれば、むしろ、当夜、アリョーシャを裏切ってでも、カラマーゾフ家に潜み、「特ダネ」をねらうか、あわよくば、3000ルーブルの豪勢なおこぼれに与るのも悪くはないと考えたのも不思議ではない。これを、作家の立場からとらえ直すとすると、「木戸の扉が開いていた」という矛盾が、作家のミスではなかったことを証拠立てることにもなる(このディテールに、作家自身が一定のこだわりを抱いていたことが、数か所から推察できる)。
「じゃあ、あのドアはどうなる? 親父がおまえのためだけにドアを開けたとしたら、おまえより先にどうしてグリゴーリーが、ドアが開いているのを見たんだ? だって、グリゴーリーはおまえより先に目撃してるんだぞ?」
スメルジャコフの答えは、むろん、グリゴーリーの見間違い、ということになる。
「あのドアのことなら、グリゴーリーさんが開いているのを見たとかいう話、あれはたんにそう思い込んでいるだけのことですよ」(第3部第9編)
スメルジャコフのこの一言が正しければ、ラキーチン真犯人説は物語の流れに沿ったエピソードの一つとしてうまく隠し込める。ドアが開いていたか、どうかはもはや問題ではない。こんな想像に迷い込むうち、私の脳裏にひとつ妙案が浮かんだ。そう、せっかくだからラズーモフのアイディアを活かし、ラキーキンのその日の行動を次のように絡ませてみるのだ。すなわち、事件当夜、彼は、アレクセイ・カラマーゾフを修道院に向かわせた後、密かにカラマーゾフ家の開け放れた木戸を抜けて屋敷内に入り、ドミートリーの出現を待った。ドミートリーの嫉妬をあおるために、木戸はわざと開け放したままにしておいた。ところが、ドミートリーは木戸を通らず、思いもかけず垣根を乗り越えて敷地内に入ってきた。嫉妬に狂ったドミートリーが、窓にノックもせず、父親の寝室にいきなり駆け込んでいくだろうという予測は外れる。窓辺に姿を隠したまま、ドミートリーは動かない。それどころか、しばらくすると窓際を離れ、塀に向かって一目散に走りだしていく彼の姿が見えた。そればかりか、彼が、グリゴーリー老人を杵で殴り倒す場面も目撃する。下男小屋に目をやると、スメルジャコフがおぼつかない足どりで母屋のドアに近づいていくのが見える。ラキーチンは好奇心の虜となり、スメルジャコフの後から窓辺に寄るが、恐怖にかられた彼は、窓から身を翻して木戸の方向に走り出す・・・・・・。何とも危っかしいプロット捏造だが、このような筋書きにすれば、本筋に大きく影響を与えることなく、木戸のミステリーがはらむ矛盾をうまく解決できる。無論この新しいシチュエーションについては、「第二の小説」のどこかで「軽く」触れられることになるだろう。もっとも、フョードル殺害犯がだれかという問題に、ラキーチンは一切関知しないことが前提となる。父親殺しの現場を目撃することもない。なぜなら、フョードル殺しの悲劇が起こるのは、まさにラキーチンが木戸を抜けて逃げ帰った後のことだからである。
イワンとスメルジャコフの対面の場面は、『カラマーゾフの兄弟』のクライマックス中のクライマックスである。これを変えることは、『カラマーゾフの兄弟』の生命を奪いとることにひとしく、決して許容されることではない。問題は、こうして状況設定の変更ないし微調整することから新たに生まれてくる新しい矛盾である。ラズーモフによれば、ドミートリーが杵でグリゴーリー老人を殴り倒し、塀の向こうに消えたあと、ラキーチンはおもむろにガラス窓に近づいて合図のノックをし、フョードル老人の書斎に踊りこんだ・・・・・・では、凶器は何が使われたのか。ラズーモフはそのあたりのディテールには触れていない。彼の説明によると、当初、フョードル殺害など望まず、ドミートリーによる殺害に便乗して、聖像画の裏に仕舞い込まれた3000ルーブルを漁夫の利とするだけの心づもりだった。ドミートリーがたとえ父親を殺そうとも、彼は決して3000ルーブルは強奪しない、という確信がラキーチンにはあった。「盗み」への猛烈な忌避も、それこそはラキーチンが、カラマーゾフシチナ(カラマーゾフ精神)の真骨頂として一目置いていた部分だからだ。
木に竹を接ぐような後味の悪い結論だが、ラズーモフにとってそれは、真犯人説の誘惑に絡めとられた瞬間から、抜け出すことが困難な妄執と化してしまった。しかし、その妄執は、図らずも、『カラマーゾフの兄弟』における隠された人間関係を洗い出すことに貢献する。ある意味で、ラズーモフが残した功績の部分ともいえる。洗い出された人間関係とは、他でもない、スメルジャコフ・ラキーキンの分身関係である。では、彼らはどのような意味で分身なのか。そう、イワン=キリストを裏切るスメルジャコフ、アレクセイ=キリストを裏切るラキーキンという関係性において。いずれも、ユダの役回りである。ちなみにラキーキンの語源は、ユダが首を吊ったとされる「やまならし」の木、ロシア語でラキータ(Pakиta)。ラズーモフはここで、スメルジャコフは、ラキーチンの木に首をかけて自殺した、という象徴的な解説を下す。では、両者を結ぶ絆は何か、といえば、一言でいって、ロシア嫌悪。ラズーモフは、着手されずに終わった「第2の小説」では、このラキーキンが、アレクセイ=キリストを裏切り、彼を断頭台に送るとまで暗示する。確かに辻褄はあっているようだし、語弊はあるだろうが、なかなか魅力的な起承転結といえる。もっとも、ドストエフスキーが想定していた「第二の小説」では、すでに将来のユダの配役を約束された少年がいたことを思いだそう。しかし、今はその名を伏せておく。この先、『カラマーゾフの兄弟』を読み続けていこうという読者の意欲を殺がないために。(完)