2023年01月
グァンタナモ、または疑念について
実録ものに私はめっぽう弱い。「This is a true story」という断り書きを見るだけで、ころりと参ってしまう。だからといって、ドキュメンタリー番組が好き、というわけでもないらしい。ドキュメンタリーと実録ものとの間にどんな違いがあるのか、私自身正確に把握しかねているのだが、史実に基づいたある種の物語と言い換えたほうがよいようにも思う。これまでSFのジャンルにろくな関心が持てなかったのも、じつはこの「実録もの」へのこだわりが原因だった。ただし、例外はあった。アンドレイ・タルコフスキーの『惑星ソラリス』。とはいえ、私が『惑星ソラリス』に惹かれたのは、そこに描かれた人間関係が、何かしら人間の本性にねざしたすばらしく形而上的な象徴性に満ちていたからである。つまり、私にとって『惑星ソラリス』は、どうしてもSFジャンルに特化すべき作品とは思えなかったということだ。
「実録もの」好きの私にとって、昨年末から正月明けの休みは、とても実りある一週間となった。年末に二日にわたって放送されたNHKスペシャル「未解決事件」第九弾(「松本清張と帝銀事件」)が、抜群の面白さで、とりわけ松本清張を演じた大沢たかおの演技に魅了された。また、挿入された実写フィルムのリアリティは、まさに「実録もの」の醍醐味を存分に味合わせてくれるものだった。平沢貞道の冤罪は、ついに晴らされることがないが、私が興味を抱いたのは、彼が罹患していたとされるコルサコフ症候群である。ビタミン不足が原因となって記憶と妄想との境があいまいになる重度の精神障害らしいが、何となく胡散臭い。ただしそこには、文学的な想像力しか及ばない領域が隠されているとの印象を持った。思えば、ドストエフスキーが癲癇の発作を介していた経験した世界も、それに近いものであったような気がする。
2023年元旦の夜、私が枕元のipadを利用して観た映画もまた、冤罪をテーマにした「実録もの」だった。タイトルは、「モーリタニアン 黒塗りの記録」。イギリス(BBCフィルムズ)とアメリカの共同制作によるもので、2021年2月に公開された。画面にいきなり「This is a true story」が出たのを見て、俄然、興味が湧いた。テーマは、911事件に関連し、ドイツ留学から故郷に戻ったモーリタニア出身の青年(モハメドゥ・ウルド・スラヒ)が、アルカイダとの接触記録から組織犯の一人とみなされ、キューバ・グァンタナモ湾に建設された収容キャンプに強制連行されるシーンから物語ははじまる。ジュディ・フォスター演じる女性弁護士の活躍によって、最終的にスラヒの冤罪が明らかになるが、私が、第一に痛感したのは、アメリカ社会の健全さ、ということである。私の思いはおのずと、建国から300年以上も経ていまだまともにデモクラシーを築けないロシアのていたらくぶりに向かった。おそらく、224以前のロシアであったとしても、こうして国家の威信を根元から損ねるような映画を撮るのは、とても勇気の要ることだったろう。
『モーリタニアン』について何かを書きたいと念じながらそのきっかけを探していた矢先、唐突にその機会が訪れた。何気なくスイッチを入れたテレビ画面に映しだされた海辺の光景をみて、即座に「グァンタナモ」の海だと察した。あまりの偶然に小さく疑念がはじけ、慌てて番組一覧表を見る。「“復讐”(ふくしゅう)からの解放〜グアンタナモ その後」とあった。2021年ドイツでの制作で、原題は、”In Search of Monsters”(「モンスターたちを追って」)。私が見ることのできたのは、わずか残り20分で、被疑者のスラヒと彼を執拗に追いつめた二人の捜査官が、ほぼ五年ぶりにパソコン場面を通して対面する場面である。勝者と敗者の立場はすでに逆転し、スラヒは今やベストセラー作家として不動の地位を築いている。他方、二人の捜査官はいまだ内心の疑念を吹っ切れず、苦み走ったその表情にときおり内心の憎しみが入りまじる。スラヒはスラヒで、すでに自分を負いつけたアメリカ社会への「許し」を表明し、絶対的優位に立ってはいるが、いまだに疑われているという思いが、時おり彼を投げやりな表情へと誘っていく。そしてその表情を見る捜査官が、再び新たな疑念にかられている様子をカメラはめざとく映しとっている。この不毛な堂々巡りのなかで番組はやがて閉じられるのだが、番組を閉じたのは、放送時間ではなく、皮肉にもパソコンのカバーだった。
スラヒが無罪か、有罪かを問うことには、もはや倫理的に意味がない。その段階はとうの昔に過ぎ去っている。だが、疑われたものから/疑うものから、その疑いが消えることはもはやない。ましてや、いったん疑われた人間は、事実/無実の境界線を超え、その疑いのなかに同化しようとする心性から逃れられない。同化させる力はなにも拷問だけではない。平沢貞道が陥った心の秘密は、もしかするとそこに隠されていたのではないか。許しに立つという、高潔で高邁な態度から輝きから奪いとる疑念という悲しい習性。人間は、人間であるかぎりにおいて、その不幸から永遠に逃れることはできない。