2025年12月

2025 12/5

悲しみの太宰 3-3

エッセイ

 太宰が全身をあずけたいと願う絶対性の対極にあるもの、それをいくつかの言葉で表してみるなら、不信、嘘、偶然の三つに集約されるのではないだろうか。なんならそこに偽善という一言をくわえてもよい。太宰は「チャンス」(新潮文庫『津軽通信』所収)と題された短編で吐き捨てるように書いている。

 恋愛に限らず、人生すべてチャンスに乗ずるのは、げびた事である。

 チャンスに乗じて恋愛をする輩だけではなく、「人生すべて」チャンスに乗じる態度を、彼は不潔(「げびた事」)と感じる。それは、なぜなのか。「チャンス」は、すべての人間が等しく享受できる平等のシンボルではないか。小説を読みすすむにつれ、「チャンスに乗じる」人間たちをどこまでも否定する太宰の心情がどこか痛々しいものに感じられてくる。「チャンスに乗じて」恋愛する他人より、その「チャンス」をあえて見逃し、孤高の立場に立とうとする驕りがどことなく悲しい。
 この時代、「恋愛」という言葉が、何かしらプラトニックな男女関係を意味することはなかったように思える。太宰の手元にあったという「辞苑」の定義には次のように書かれている。

 性的衝動に基づく男女間の愛情。すなわち、愛する異性と一体になろうとする特殊な性的愛。

 この定義がいかに特殊か、いや、現代の「恋愛」観といかに隔たりがあるかは、現代の広辞苑(第六版)の定義と比べてみるとよく理解できる。

 男女が互いに相手をこいしたうこと。また、その感情。こい。

 チャンスに乗じた「恋愛」にたいし、これを「げびた事」と切り捨てようとする太宰の嫌悪には、こうしたより「性的」に傾いた当時の「恋愛」観の存在が根底にあったことは想像されるし、何よりも、そこには、「人間失格」の読者がよく知っている太宰のトラウマが隠されていた。「チャンスに乗」じた「げびた事」の最たるものこそ、「二匹の動物」のあのおぞましい光景であった。では、そうした「チャンス」に満ち満ちた現実に対して、太宰はどのような態度をとることができるのか。どのようにして彼は、自己防衛を図ることができるのだろうか。同じ「チャンス」の中で彼はこう書いている。

 私の恋の成立不成立は、チャンスに依らず、徹頭徹尾、私自身の意志に依るのである。

 では、なぜ、太宰は、「チャンス」を、あるいは「偶然」をこれほどにも恐れるのか。彼は、それまで自分自身の身に起こった「偶然」を、恩寵のようにとらえることがなかったのだろうか。それともすべては「私自身の意志」に過ぎなかったのか。いや、むろん、恩寵の自覚に身も世もなく舞い上がる瞬間はあったはずである。そしてそれは、太宰自身の人生に起こったからこそ、唯一性としての意味をもちえたのだ。彼が恐れていたのは、みずからの「恋」が唯一性を帯びない状態だった。彼が、自分の愛の「唯一性」に見ていたのは、むろん、彼自身が辞苑から引用した恋愛(「性的衝動に基づく男女間の愛情」)の本来的感覚である。本来あるべき唯一性の感覚が、「げびた」輩においてはたんなる性的衝動として片付けられ、性的なはけ口としての意味しかもちえない、というところに彼は根本的な疑念を抱いた。「チャンス」や「偶然」が、一見どれほど純粋で美しいものに見えようとも、嘘をはらんでいる、と彼はみずからの経験において確信していたのである。人間は、「偶然」のもつ唯一性にすべてを賭けることができるほど優等ではなく、そこには、否応なく作為が持ちこまれる。そのとき、「偶然」はたちまちのうちに「偽善」と化してしまう。太宰が嫌っているのは、偶然そのものというより、偶然に乗じようとする俗悪な力、偶然に作為を持ちこもうとする「いやしい」心の動きだった。太宰は、「偶然」のもつ神的な意味にどこまでもとどまろうとしていた。そして彼は書いた。

 片恋というものであって、そうして、片恋というものこそ常に恋の最高の姿である。(「チャンス」)

「片恋」が、「献身」という名の、より普遍的なレベルでの唯一性を獲得するまではほんの数歩である。しかし、それは、ある意味で太宰の敗北宣言でもあったようにみえる。(つづく)

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