悲しみの太宰 6-2
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一九三〇年一一月、当時、東京帝国大学文学部仏文科の学生だった太宰は、銀座のカフェに勤める田部シメ子(「道化の華」では、「園」の名で登場する)と鎌倉・腰越【こしごえ】の海辺で心中を図った。入水前、二人は大量のカルモチン(催眠薬)を服用した。田部は死に、太宰は一命をとりとめた。
事件から六年後に発表された「晩年」で、太宰は部分的ながらはじめてこの事件の真相を公にする。
満月の宵。光っては崩れ、うねっては崩れ、逆巻き、のた打つ浪のなかで互いに離れまいとつないだ手を苦しまぎれに俺が故意と振り切ったとき女は忽ち浪に呑まれて、たかく名を呼んだ。俺の名ではなかった。(「葉」)
読者の好奇心をはげしく煽りたてるフラッシュバックである。しかし太宰は、この「葉」において、これ以上先の描写に踏みこむことはしなかった。おそらく、この事件がはらむ核心部が真にリアルなものとして記録されるだけで満足だったのではないか。では、この文章のどこに核心部は存在していたのか。それはほかでもない、次の二点である。
一、「苦しまぎれに俺が故意と振り切った」という事実。
二、心中相手の園(田部シメ子)が、最後に呼んだ名前が、「俺の名ではなかった」という事実。
右に挙げた一の事実に目を向ければ、当然のことながら、自殺ほう助罪の疑いが浮上する。まさにぎりぎりの「自白」である。
では、第二の、当時一八歳のシメ子が「逆巻」く波のなかで声高く呼んだ相手の名前はだれだったか。むろん、それは、新劇の俳優となることをめざして上京してきた内縁の夫である。
しかし、「葉」で太宰が意図したのは、心中事件の内実を断片的に暴露することだけではなかった。問題は、切れ切れにされた事実やイメージが、どのような論理のもとに編集され接合されているか、を明らかにすることだった。その点でとくに読者の興味をそそるのが、次の一節である。
私たちは山の温泉場であてのない祝言をした。母はしじゅうくつくつと笑っていた。宿の女中の髪のかたちが奇妙であるから笑うのだと母は弁明した。嬉しかったのであろう。(「葉」)
これは、心中事件の翌月、青森碇ヶ関温泉で執り行なわれた太宰と小山初代の仮祝言にまつわる記録である。太宰にとって一九三〇年の終わりの二カ月間にまさる激動の日々はなかった。太宰は当時、非合法左翼活動との関わりから恒常的な恐怖とストレスを抱えていた。そうした状況を考えあわせた際に、際立ってデカダン的な匂いを発するのが、心中事件と仮祝言にみる華やぎのコントラストである。事件後、まさに受け身の存在となった太宰がつきあわされた日常の現実が、いかにグロテスクな匂いと光彩を放っていたかがこれでわかる。しかしそれは、モンタージュの手法にあやかった太宰独自の擬態でもあったのだ。(つづく)