悲しみの太宰 11-1
「お母さんとあたしとは同性愛みたいだったのよ」(太宰治「冬の花火」)
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太宰治を読みながら、腑に落ちない、わからない、と思うことがたびたびある。それは作家が、何かしら難しい理屈をこねた部分についていうわけではない。といっても太宰が理屈をこねることはあまりないので、そこは安心できるのだが、たとえば、登場人物の感情のロジックとでもいうべきものが、一瞬のうちに見失われ、一読者として蚊帳の外に置いてきぼりを食らうような苦い思いをたびたび嘗めさせられるのである。ことによると、それこそが、太宰文学の懐の深さということなのかもしれないし、私たち読者もそれなりに人生経験を積めば、その懐の深みに近づくことが許されるのかもしれない、といった淡い期待を抱くこともできる。むろん、どの作家のどの作品を読むにしろ、多かれ少なかれそうした苦い思いはつきものだが、どうやら、太宰の文学では、ことのほか、そうした経験に出会う頻度が高いような気がする。
戦後まもない時期に太宰は、「冬の花火」「春の枯葉」と題する戯曲を立て続けに書き下ろした。台本執筆の経験は、学生時代に一度あるようだが、本格的な商業演劇向けの戯曲は、この二編が最初で、最後だった。この二編をつなぐ糸は、一種の形容矛盾にも似たタイトルにある。「冬の花火」も、「春の枯葉」も、太宰の目がとらえた戦後まもない日本が置かれていた精神的な状況の隠喩と考えてよい。太宰がこのあと、夏、秋と、四季を題材にした戯曲をさらに二編書き進め、四季のイメージを介して、戦後日本の心象風景を綴るといった心づもりがあったのか、どうか、私にはわからない。
少し生意気な言い方をお許しいただけるなら、この二編は、太宰が、劇作家としていかに不向きであったか、ということを如実に物語っている。本来なら、小説というジャンルに盛られるべき中身を、たんに戯曲という別の器に落としこんだだけといった印象を受けるのだ。しかし、たとえ商業演劇をめざした委嘱作品とはいえ、太宰自身、戯曲という新たな分野でも、何がしかの仕事はできると踏んでいたことはまちがいない。津島美知子の回想によると、太宰はこの時期、「よく兄の書棚から戯曲集を借りてきて読んでいた」というから、彼としても十分に準備して執筆に臨んだと思われる。戯曲の執筆に臨んだ太宰の隠された目的をはっきりと見定めることは困難だが、それでも、いくつか謎めいた暗示をここに認めることができる。
第一の戯曲「冬の花火」が書かれたのは、昭和二〇年の暮れから、翌年のはじめにかけてのことである。戯曲の完成からほぼ一年を経た昭和二一年一二月の初演が予定されていたが、当時、GHQの意向を慮って中止せざるをえなくなった経緯がある。他方、「春の枯葉」は、東京工業大学の学生だった吉本隆明によって上演されたという記録が残っている。また、千田是也による二度目の上演の際、太宰自身は顔を見せず、「例の山崎富榮さんがいらして、なんでも眠り薬を多量に飲みすぎて、とても來られないといふ傳言を持つて來られた」(千田是也)という。千田は、「自分の書いた下手な芝居を、俳優が一心不亂に演つてゐるのを見るのは、照れくさいし、俳優に氣の毒で、我身を切られるやうにつらい」(同)という太宰の言葉を引用しているが、その心情に偽りはなかったろう。(つづく)