2026 9/16

悲しみの太宰 12-1

「有史以前から、お前たちには、そんな強さがあったんだ」(太宰治「春の枯葉」)

 太宰治最晩年の戯曲「春の枯葉」(一幕三場)は、国民学校教師である主人公の野中弥一の自壊の物語である。舞台は、前作「冬の花火」と同じ津軽地方。時は、「冬の花火」から二、三カ月後の昭和二一年四月。津軽の名家の一つである野中家に一〇年前に養子として入り、いまやその主となった弥一は、国民学校の教師として営々たる日々を送っている。野中家の封建主義的な家庭に育った節子は、養子である夫に献身的に仕える身だが、子どもはいない。野中家には、同じ東北の出ながら、戦争で家を失った奥田義雄とその妹の菊代が同居している。
 全三場からなる戯曲の第一場は、村の国民学校――。冒頭で、野中は、一人泣きじゃくる生徒を教室に引きずりこみ、校庭でほかのみんなと合唱していた歌の歌詞を教えてほしいと迫る。生徒は、最後まで言葉を口にせず、歌う。読者は、それが、土井晩翠作詞、瀧廉太郎作曲で知られる「荒城の月」であることを知る。野中にひそかに思いを寄せる菊代が、「日本の文化のため」と称し、生徒たちに近代日本の歌謡を教えこんでいたのだ。
 野中は、作者太宰の面影を強く残している。冒頭で、彼が吐く、「先生は、あの歌を、ところどころ忘れたのでね」というひと言から見えてくるのは、太宰の面影を引き継いだ野中のモダニストとしての性格づけである。モダニストであったからこそ、古典中の古典ともいうべき「荒城の月」の歌詞もうろ覚えだったのだろう。
 この戯曲で、この「荒城の月」を、「悲しい歌だね」と言わしめたのは、戦前の日本の栄光に照らし、いまや荒廃の極みにある戦後の日本を愁えるナショナリスティックな心情を歌いあげる目的があったからではない。むしろ、野中自身のうちにくすぶる敗残の意識を、生徒たちの歌が、明々と照らしだしてくれたからである。栄枯盛衰という独特のニヒリズムに対する共感とでもいうべきか。むろん、それは、戯曲のタイトルである「春の枯葉」のイメージにも深く通底していた。
 しかし、野中は、戦後の民主主義化の流れにしたがい、国民学校の一教師としてその役割を誠実に果たそうとしてきた。それを物語るのが、黒板に板書された次のような「文字」である。

  国民相互の信頼。道徳。文化。デモクラシー。議会。選挙権。愛。師弟。ヨイコ。良心。学問。勉強と農耕。海の幸。(太宰治「春の枯葉」以下同)

 話は先走るが、第二場で、野中が酔いにまぎれて発する次のひと言も、野中のポジティブな思想信条のありかを暗示している。

  歴史は繰り返すなんて、どだい、あれは、君、弁証法を知らんよ、なんてね、僕もこれは一つ、社会党へでもはいって出世をしようかな。

 しかし、舞台が第二場に移ると同時に、野中の自己分裂と苦しみが浮き彫りにされる。第一場、国民学校での野中と、酒に酔って登場する第二場の野中はまるで別人であり、野中の義理の母しづが、間借り人の奥田にいみじくもこぼしてみせた通りだった。

  鬼ですとも。鬼以上かも知れない。あなたには、あの人の真のおそろしさが、まだわかっていらっしゃらないのです。お酒を飲むと、もう、まるで気違いですし、意地くねが悪いというのか、陰険というのか(後略)

 では、酒で憂さをまぎらし、自己分裂と戦う野中の真の苦しみとはどこにあるのか。(つづく)

Category

世田谷文学館のホームページに戻る