2024年10月

2023 4/7

夕虹の、輝ける静けさのなかで

故菅野昭正名誉館長を偲んで

菅野先生のお仕事のなかで、私がいつも楽しみにしていたのが、館報の対談コーナーである。過去20年近く文芸時評のお仕事に携わってこられた先生ならでは守備範囲の広さ、視点の鋭さに唸らされた。辻原登さん(神奈川県立近代文学館長)、蓮實重彦さんら、現代日本をリードする作家、批評家ばかりではなく、近年、とみに円熟の境地に入りつつある島田雅彦さん、今や日本を代表する作家の一人となりつつある平野啓一郎さんらが館を訪れ、文学、芸術、政治をめぐって丁々発止の議論をくり広げた。2020年の号の対談者として招かれた際、私は、自分が専門とするドストエフスキーをめぐってあれこれ持論を披露したが、途中、彼の登場人物たちに見られる「ヒポコンデリー」の意味について問われ、一瞬、説明につまった。若い時代に経験したドストエフスキー熱の記憶を蘇らせながら、先生は満を持して対談に臨まれたのだと思う。
顧みるに、文学館を介して菅野館長と接することのできた機会は決して数多くなかった。最初の出会いは、今も記憶に残る2011年9月11日。連続講座『村上春樹の読み方』の講師の一人として招かれた(事前に、直筆の手紙が届けられ、大いに恐縮した)。講演がはじまる前、私は館長室で、私が20年以上前に書いた著書を差し出し(『甦るフレーブニコフ』)、告白した。若い時代、ロシアの未来派詩人の評伝を書いていたときに私が座右の書としていた本が、先生の代表作の一つ『ステファヌ・マラルメ』であったこと・・・・・・。
悔しいことに、村上春樹をめぐるその日の講演は、完全な尻切れトンボに終わった。つい2か月前に訪ねた大震災の被災地と、8月の中旬に訪ねたマンハッタン・グラウンドゼロの話題に足を取られ、時間配分で大きなミスをおかしたのだ。野武士のように眼光鋭い館長の顔に、ありありと失望の色が浮かぶのを見て、私は大いに気落ちした。
落胆のきまずさの記憶は、長く続いた。菅野先生と二度目にお目にかかることができたのが、それから7年後の、2018年夏の軽井沢である。加賀乙彦さんが館長をつとめる「高原文庫」に講演者として招かれた私は(講演タイトルは、「加賀乙彦とドストエフスキー」)、途中、会場の最後列に、三重夫人とひっそりと椅子に腰を埋める先生の姿を目にして動揺した。予想せざる「再会」だった。だが、講演終了後、挨拶に向かった先生の口もと小さく微笑が綻ぶのを見て、私は「失地回復」を確信した。
それにしても残念なのは、コロナ禍である。軽井沢での再会後、対面でお目にかかる機会はほとんどといってよいほどなくなった。私自身が体調を崩したこともあり、日本芸術院の総会で一度、顔を合わせることができたのみである。ただし、その間、先生の最新書『小説と映画の世紀』(未来社)を介して、先生とじっくり対話する時間を得ることができた。A5版360頁におよぶ大著である。何よりも、ワープロをいっさい使わず、自筆で書き上げた先生の知的体力に驚かされた。思うに、先生は、12の小説と12の映画の詳しい比較分析を通して、20世紀が生んだ「世界文学」の復権を、身を挺して実現しようとしていたのだろう。それは、20世紀文学へのノスルジックな回想というより、21世紀に向けた先生なりの知的挑戦とでも呼ぶべき性格を帯びていた。マン(『魔の山』)、カフカ(『審判』)、パステルナーク(『ドクトル・ジバゴ』)から、クンデラ(『存在の耐えられない軽さ』)、エーコ(『薔薇の名前』)と続く豪華ラインナップ。先生がこの著を、次世代に贈る「遺書」として自覚されていたことにまちがいはなく、全巻を読み上げることのできた私は、心から讃嘆の思いを込めて書いた。
「本書を手に、ときにノスタルジックな思いにかられつつ、ある種の感慨を禁じえなかった。端的に言おう。本書は、20世紀芸術文化の終わりを見送る葬送の書である。今後、確実に「未読」で「未見」の「テクスト」となるべき運命にある12の「小説と映画」を、次の世代にまで繋ぎとめるため、私たちにできることは何か。今こそ、この問題に立ち止まることなく、いかなる人文学の未来も語れないような気がする」(『週刊読書人』 2021年8月20日)
先生との数少ない出会いのクライマックスは、2021年12月7日のことである。名誉館長に就任された先生を、館長対談の最初のゲストとしてお迎えすることができた。先生の話しぶりは、明晰で、淀みなく、その内容も、ときに厳しすぎると思えるほど批判的な精神にあふれるものだった。文体への過剰なこだわりが生んだフローベールの限界、社会的な背景をシャットアウトしたがゆえに失われたデュラス文学の普遍性。対談の終わり近く、先生は、現代における文学と教養の喪失を嘆きながら、「草の根文学運動」の必要性を説き、セタブンこそがその拠点となるべきだ、と熱っぽく持論を吐きだした。後日、私はそのときの対話を反芻しながら手紙を書き、「教養とは何か」の問いを投げかけた。当時、執筆中の本(『人生百年の教養』)が完全に壁にぶちあたっていたのが、手紙を書いた理由である。先生は返信に、フランスの哲学者ジュリアン・バンダに言及しつつ次のように書きつづっていた。
「本当の教養というものは、すっかり忘れていた知識が、ふとよみがえって、実生活であれ、精神生活であれ、人間の生きる指針になることだと説かれていたことを思い出します。忘れられていた知識が、精神の奥から浮上するというのが好ましいですね」
21世紀という時の喧騒のなかで、おのれの声が確実にかき消されるのを自覚しつつ書いて下さった、という感慨が私の胸のうちに広がった。老いの、輝ける静けさ。その美しさをどう称えようとも、この静かさの僥倖にだれもが与れるわけではない。
先生の人生には、かりにこのような形容が許されるとして、劇的なフィナーレが待ち受けていた。歌会始めの召人を務めた先生が詠んだ和歌を引用しておきたい。
「きはやかに窓に映えたる夕虹は明日の命の先触れならむ」
明日朝の晴天を予告するはずの夕虹が、同時に人間の命の儚さをも予言するという、二重性の極みをいく一首。ここには、生命そのものへの遥かな憧れが感じられはするものの、私心や、生命への邪な執着はいっさい感じられない。想えば、この一首を謳い終えてまもなく先生は病床に臥し、8か月の過酷な闘病生活を経て、力尽きた。1月終わり、退入院の合間にいただいた電話でのお声は、入院疲れの声枯れはあっても、トーンは明るく、滑舌もしっかりしていた。急逝した加賀乙彦さんの追悼文を近々書く予定にしているが、きちんと書けるかな、と不安を口にされたのがつよく印象に残った。そしてそれが、私が耳にした先生の最後の言葉となった。これを運命のいたずらと呼ぶのだろうか。追悼文は、3月6日発売の『すばる』4月号に掲載された。今にして思うに、追悼文が世に出るとほぼ同時に、先生は息を引き取ったことになる。文芸評論家として、最後の使命を立派に果たされての死。結びには次のように書かれている。
「主要な小説をあれこれ回想してみせたのは、それが追悼の微意を尽すにふさわしいと考えたからである。そんなふうに哀悼の筆を運ぶうちに、冗談を好みユーモアを絶やさない加賀さんの対面の場面がよみがえってきた。嬉しかった。しかしいまや惜別しなければならない。さよなら加賀さん。長い交友をありがとう」。
担当編集者の言によれば、「頂いた原稿の直しは、一字のみ」だったという。
菅野先生が亡くなられて早くも1月が経つ。この数日、「草の根文学運動」という館長対談での一言が、なぜかしきりに頭を掠める先生の「遺言」に励まされ、セタブンのさらなる発展のために何かできることは何か、を考える。答えは、単純である。種を撒くこと。つまり、出会いの十字路を開くことである。私には、小さなアイデアがある。幸い、1階ロビーのスタインウェイが半ば放置状態にある。何とか、これをロビーの中心に据えることはできないものか。菅野先生なら、きっと、マラルメとドビュッシー、そして北原白秋といった古典的な組み合わせのイベントを考えだされるにちがいない。私なら、少し硬めにロシアから入り、ドストエフスキー、ショスタコーヴィチ、埴谷雄高と、世紀と国境をまたぐ組み合わせを考えてみる・・・・・・

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