エッセイ

2023 10/13

「奇跡」との平凡な出会いについて 1

エッセイ

「自然の掟にしたがわず、神によって引き起こされたと信じられている行いや出来事」
(『オックスフォード学習者辞典』)

 

1 「奇跡」のひとり笑い

この一年、身の回りで起こるちいさな出来事の一つひとつに、かつて経験のないと驚きやときめきを覚えることが多くなった。ごくあたりまえの常識の持ち主なら、「たまたまね」くらいの軽いひと言で片づけてしまうはずの出来事に、私は妙なこだわり、いや縁(えにし)を感じて、「奇跡だ!」と呟いてはひとり悦に入っている。齢七十四――。いま、私のなかで起こりつつあるこの変化はいったい何の前触れなのか、とふと不吉な思いにかられることもしばしばである。
「奇跡」とそれに伴うひとり笑いは、夜の散歩時によく起こる。雲間から月がのぞく一瞬、笑みが湧く。夜の散歩道をすっと横切る野良猫の忍び足に笑いがこぼれる。野球帽姿でジョギングに励む年配の女性の姿にも、なぜか大きく頬が緩む。「奇跡」とは、要するに、べつにどうということもない、世界と心のちょっとした変化の意味なのだ。こうして一年、私は、もう、数えきれないくらい多くの笑いを経験してきた。そこで悟ったのだった。人間、心がけ次第でいくらでも「奇跡」に出会える、と。
しかし、「奇跡」と呼ぶからには、より深い味わいを伴った経験にも出会う。その時の私は、何かしら永遠的なものに触れていると感じる。その例をいくつか紹介をしよう。
私が暮らす町のメインストリートの中ほどに半円形の小さな野外ステージが設えられている。普段は何気なく上り下りしている階段状のステージなのだが、休日の午後などは、ちょっとした市民の憩いの場に早変わりする。その日はたまたま「父の日」にあたり、アマチュアのジャズバンドが謝恩のコンサートを催していた。私は隣接するスターバックスのガラス越しにぼんやりとその光景を眺めていたが、後半の始まりと同時に、飲みかけのカップを手に表に出て、ステージ脇のベンチへと席を移した。ボサノバ、そしてマンボをメインにするプログラムのようだったが、思わず笑いがこぼれたのは、お馴染みのラテンナンバー「テキーラ」を演奏中のことだ。小学生低学年とおぼしき少女の、大人たちの声に合わせ、「テキーラ!」とひときわ甲高い声で叫ぶ姿が目に入った。翌週、私は急にテキーラが飲みたくなって近くの酒屋に行き、「ホセ・クエルボ一八〇〇」なる高級酒を手に入れた(まだ味は試していない)。
その日の最大の「奇跡」は、コンサートの締めに演奏されたビートルズの名曲「ノルウェイの森」である。リーダーらしきハワイアンシャツの老人が、風音でかき消されそうな掠れ声で曲名を紹介する。フィナーレの盛り上がりを期待する向きには、いささか拍子抜けする地味な選曲だったが、私は奇異の感に打たれ、頰が大きくゆるむのを感じた。文句なしの「父の日」のプレゼントである。というのも、その前日、村上春樹の『ノルウェイの森』を読みおえ、間をおかずにアマゾンプライムのビデオにまで触手を伸ばしたばかりだったからだ。スターバックスからステージを眺めていたとき、私は直子役を演じた菊地凛子の青白い面影に支配されていた。やがてコンサートも引け、いつになくほのぼのとした気分で家に戻った私は、さっそくYoutubeにアクセスした。ビートルズの原曲を久しぶりにじっくりと味わいたくなったのだ。ところが、曲のタイトルが、Norwegian wood と出ているのを見て、怪訝に感じた。wood ではなく、forestの間違いではないか、と。そこでウィキペディアに当たると、何と、「Norwegian wood」は、家具や建築の材料に用いる「ノルウェイ産の材木」の意味とあるではないか。歌われている世界も、若い男女のつかのまの出会いと別れを描いたごく散文的なものだった。それでも、「奇跡」のオーラが輝きを失うことはなく、生まれかけた「永遠」の感覚は、微妙な笑みを誘いだしたまま、記憶の奥の森羅万象にすっと姿を隠した。(つづく)

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