エッセイ

2023 12/15

眩しい光、自由の影 2

エッセイ

椎名鱗三のアナーキー

 逆説的に聞こえるだろうが、『懲役人の告発』は、「告発」ではなく、「赦し」をめぐる小説である。長作がいかに父親の行為を非とみなそうと(「おやじさんは悪魔やったんや」)、タブーを犯した二人の男たちの罪を「告発」する小説というふうには単純に読めない。作者みずから題名にひそかに背をむけ、善悪の彼岸に立とうとする気配が感じられるし、しかもその境界に花開く淫らな自由に一体化せんという衝動を、人間であるがゆえの逸脱として捉えようとする視線が見え隠れするのである。福子を凌辱した長太郎は、息子の長作に向かって傲然と言い放つ。
  「あれはきれいなことやった。福子さんもきれいやったけど、わしの心もきれいやったさかいや。……宿屋でも、福子さんは神様みたいに自由やったんやで」
 長作は、「頽廃した老人」の「エロ話」に耳を傾けながら絶望にくれ、「おやじさんのいることのできる大地は、もうのうなってしもとるんや」と語りかけるが、父親の行動を口先でどう否定しようと、長作のマゾヒズムが、父の逸脱を心のどこかで受け入れていることがわかる。ジラールのいう「欲望の模倣」ではないが、これは、むしろ人間にとって不可避ともいうべき衝動であり、それが不可避であるならば、もはや神的な高みに立ってこれを断罪する権利はだれにもなくなる。
 長作は、福子凌辱の後、水死の道を選ぶ長太郎を脳裏に浮かべながら次のように言う。
  「そいつは水死体であるどころか、S川をゆったり水鳥のように泳ぎながら遊んでいるのである」
 そして作者椎名も、自分のうちに滾々と湧き起こるアナーキーな妄想を、もぐら叩きのように端から否定しつつ、「自由」の名のもとに心のどこかでそれを受け入れようとしている。「おやじのいやらしさ」を嫌悪し、許されざる一線を越えたと責め立てておきながら、その一線を、福子の凌辱に見ることはしない。
  「自由な福子をあまり神聖なものとしたこと、その過度が問題なのである」
 思うに、長作が涙さえ流しながらここで告白しているのは、父親との共犯性の認識である。彼は書いている。
  「愛、そんなものではない。どこかでおやじに同感をもっているせいかも知れないと考えた」
 さらに厳密を期すなら、この福子殺しは、けっして父(長太郎)と義理の父(長次)との間に生じた三角形的な情愛の破綻といった性質のものではない。椎名はむしろ、それを長太郎(父)、長次(義理の父)、長作(息子)の三者による集団的な福子殺しであること、そして福子殺しとは、とりもなおさず、自由そのものの殺戮を意味し、真に神を取り戻すために必要な供犠ないしは燔祭だったことを示唆している。
 『懲役人の告発』において椎名がめざしたもの、それは、疎外からの解放であり、主体性と自由の獲得だった。そしてそれは、「死者」たる人間の再生として意味づけられた。しかし問題は、椎名がその問題を、近親同士という、極限的関係性のなかに設定した点である。つまり、この物語は、自由をめぐる、究極の地点、極限のシチュエーションにおける思考実験だったといえるのである。椎名が考える再生が可能となるには、自由という禁断の実に触れ、その生命に触れる必要があった。父長太郎の願いもまた、ひたすら「触れる」ことにあった。ところが、「触れる」という行為のもつ神聖性が、現実にあって、一瞬のうちに地獄的な営みへと転化してしまった。では、その時、神はどこに姿を隠してしまったのだろうか。神は、みずからの地位を福子に譲りつつ、まさに、果てしない、どう猛な力のなかに、その蠱惑的でなまめかしいエロスのなかに身を隠していたのではないか。小説執筆中の椎名は、心のどこかで、おそらくそのような危険かつアナーキーな確信を懐の奥にしまいこんでいたように思えてならない。むろん、椎名にしても、自己防衛の策として、その危険な確信をカムフラージュできる程度の演技力は持ちあわせていた。それは、他でもない、タイトルに掲げられた「告発」という偽りのひと言である。(つづく)

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