エッセイ

2024 7/19

モスクワ、文学と酔いどれの・・・・・・

エッセイ

 国家崩壊から3年経た1994年から翌年にかけて約一年、モスクワに暮らした。研修先は、科学アカデミー付属の世界文学研究所。私はそこで、1930年にピストル自殺を遂げた革命詩人ウラジーミル・マヤコフスキーの全集編纂作業にオブザーバーとして参加した。全三十巻による刊行を予定しているとのことで、毎週水曜日がその作業日に当てられていた。アパートは、都心の地下鉄駅まで五分という至便の場所にあった。少し無理をすれば、ボリショイ劇場やトレチャコフ美術館へも徒歩で行ける距離である。七十平米ほどある1LDKの家賃が、二百五十ドル。破格の安さだった。一時は一ドル四千ルーブルにまで下落した超インフレの時代で、アカデミーの所員には、百ドルの月給もまともには支払われていなかったという。そんな彼らを哀れに思い、何かしら口実をもうけては、大宴会を催した。一種の慈善事業である(笑)。料理の準備にみっちり二日をかけ、三、四ダースのハイネッケンとワイン数本を用意した。ウオッカはむろん所員たちの持ち寄りである。十五分ごとに切れ目なくつづく乾杯の小話が曲者で、泥酔した頭に話の勘所はほとんど理解できず、周囲の笑いにだらしなく合わせるだけだった。楽しみは、詩人や作家たちの裏話だが、そんな大事な情報も、二日酔いの苦しみのなかできれいさっぱり忘れ去られた。ただ、今もって時々思い出す言葉が一つだけある。
 「ウオッカがいちばんうまいのは、詩と収容所の話をしているときだ」。
 思うに、所員たちはみな国家崩壊の犠牲者だった。それでも彼らの心には、文学への思いが熱く息づいていた。スターリン時代に劣らぬ悲惨とストレスを生き延びる道はそこにしかなかったのだろう。やがて世紀が変わり、原油価格が高騰しはじめるなか、街の光景は大きく変化しはじめる。エルメスやディオールの巨大な広告が立ち並ぶ都心はもう、私の愛するモスクワとは無縁の光景であり、物欲に目覚めたロシア人は、私の知るロシア人ではなかった。私は今もって心のなかで愚直な問いを反復している。ロシアから文学を引いたら何が残るのか、と。あれから二十二年、マヤコフスキー全集は今もって一巻も刊行されていないと聞く。(2016/3)

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