エッセイ
BWV639、または崇高
どれほど齢を重ねようと、心のふるえは、起こる。そのふるえは、つねに、現在というかけがえのない刻印を帯びて、過去のどんな記憶にもましてなまなましい。他方、記憶の奥に散らばるシーンは、たとえいくつ数えあげても、たばこの吸い殻のような味気なさを伴う。ただ、これが失われたらもとても生きてはいけない、と思える感覚の記憶だけは残っていて、ことによると、それこそが、「崇高」と呼ばれる感覚の正体なのかもしれない。
ここ数日、バッハ「われ、汝に呼ばわる、主イエス・キリストよ(ブゾーニ編曲)」(BWV 639)の旋律が頭から離れない。名もない渡り鳥のように、どこから来て、なぜここに住み着いたのか、理由もわからず、ただ戸惑うばかりだ。わかっているのは、ピアノを演奏しているのが、アルフレッド・ブレンデルであるということ。また、この旋律との出会いの記憶もはっきりしている。今から約四十年前、当時、話題になっていたアンドレイ・タルコフスキーの映画「惑星ソラリス」を通して出合った。映画のタイトルシーンが、電子音楽による厳かな旋律に重ね合わされていたのだ。
惑星ソラリスを探査する宇宙船内で異変が生じ、調査のために心理学者クリスが送り込まれてくる。到着早々クリスは、科学者のほかにはいるはずのない船内に奇妙な「人影」を見かけて愕然とするが、やがて同じ事態が彼の身にも起こりはじめる。ソラリスを囲む磁場には、人間の無意識に埋もれた一部の記憶を物質化する力があるらしく、眠りから覚めたクリスの前に突如、かつて自殺した妻ハリーが肉体をまとって蘇る。
バッハの音楽は、フィナーレ近く、ブリューゲル「雪中の狩人」の掛かるラウンジのシーンで再び使用される。クリスとハリーは無重力状態のなかでつかの間、至福に似た安らぎのときを過ごすが、まもなく音楽は暴力的に断ち切られ、液体酸素を口にして自殺したハリーのなまなましい死体が大写しになる。なんという残酷なモンタージュだろうか。
バッハの音楽は、その深い息遣いのなかで、自己犠牲の苦しみを慰め、諦めと神への恭順を説く。アウラでもノスタルジーでもなく、ただ切ないほどの思いのこもる祈りと「崇高」への憧れ。この「崇高」への祈りが失われるとき、芸術は死ぬと、タルコフスキーは真剣に考えていたが、悲しいかな、彼が予言し、恐れつづけた芸術の死は、遅からず訪れたのだった。(2017/2)