エッセイ
ベルイマン『沈黙』をめぐるメモランダム
最近、観た映画のなかで抜きん出てつよい印象に残った作品がスウェーデンの映画監督イングマール・ベルイマンによる問題作『沈黙』(1963)である。舞台は、第二次大戦後まもない東欧圏の、「チモカ」と呼ばれる架空の町(ちなみに「チモカ」の語源は、日本語ではないか)。心臓の病を抱える翻訳家の姉エスターと妹アンナ、そしてアンナの幼い息子ヨハンが、旅の途中、およそ言葉の通じない異邦の町に降り立つ。
タイトルが示す神の「沈黙」(”Tystnaden”,”The Silence”)は、何よりもまず、そのバベル的状況に示される。つかのまながら、言葉が通じない世界にせり出してくる力とは、むきだしの欲望である。欲望こそは、言葉を介しない、もっとも原初的なコミュニケーションの形だからだ。暇を持て余し、発作に苦しむ姉の面倒を見ることもなく町に出たアンナは、カフェで出会った男とゆきずりの関係におぼれる。
だが、『沈黙』における最大のバベル的状況は、同じ母語で語りつつ、ついに和解の道を開くことのない妹姉の関係性のうちに現出する。ホテルに置き去りにされ、「死にたくない」と絶叫し、神と亡き母に救いを求めるエスターだが、その願いはついに、そのいずれにも聞き届けられることはない。
底知れぬ絶望感に包まれた作品だが、かすかながら希望の光は感じられる。妹アンナの息子ヨハンの心にきざす慈しみの力――。慈しみもまた、もっとも原初的なコミュニケーションの形そのものではなかろうか。印象深いシーンを一つ挙げておこう。いがみあう姉妹を宥めるかのように、バッハ『ゴールドベルク変奏曲』の第25変奏がラジオから滔々と流れるシーンである。面白いことに、曲目を尋ねられた姉のエスターは妹にむかって、作曲家のファーストネームをあえて省略して答える。省略された名は、むろん、ヨハン。このささやかなシーンは、『沈黙』における少年ヨハンの立ち位置をおのずと決定づけるものとなる。言葉を介さない純粋音楽への憧れにも似て、母への盲目的な愛から、苦しむ伯母への、より開かれた愛に目覚めるヨハンこそは、このバベル的状況にあって、神の「沈黙」に替わる唯一の力となりうる、とベルイマンは語ろうとしているかのようである。(2023/1)