エッセイ
「終わり」の光景、「怒りの日(Dies irae)」
ウクライナ戦争に関連する一連の動画を見ながら、地上の塹壕戦を克明に映したドローン映像に接し、新たな衝撃を覚えた。見るという立場に留まるかぎり、世界はいっさいのタブーから解放されつつある、そんな予感をもった。その予感は、911のツインタワー崩落の映像を見たときの経験を思い起こさせた。あの日、私はロンドンにいて、Proms のコンサート会場の片隅に身を埋めていた。プログラムの冒頭、思いもかけずベートーヴェンの交響曲第三番から第二楽章「葬送行進曲」が演奏された(エッシェンバッハ指揮、パリ管弦楽団)。そしてその日のメインとして用意されていたのが、あろうことか、ベルリオーズ『幻想交響曲』。第五楽章(「ワルプルギスの夜の夢」)に入り、不吉な鐘の音に続いてグレゴリオ聖歌の一曲「怒りの日」(Dies irae)がチューバでかき鳴らされる。聖歌の意味するところは、「怒りの日、その日はダビデとシビラの預言のとおり世界が灰燼に帰す日」。まるで、今日という日を予告していたかのような選曲である。この経験以来、私は「怒りの日」に特別の注意を向けるようになった。そしてこの音型を好んで引用した作曲家の一人が、セルゲイ・ラフマニノフであることを知った。彼は、西側に亡命する前からこの旋律に愛着をもち、最晩年の作品(「パガニーニの主題による狂詩曲」「交響的舞踏」)でも同じ音型を取り込んでいる。音楽学的に、パガニーニと「怒りの日」の旋律の関係性を証明することは可能だと思うが、私の耳はまだ、この二つの旋律の「接近」を、気分と雰囲気で捉えることができるだけである。これは、仮説だが、私がこれまで何度かチェロで挑戦してきた「ヴォカリーズ」冒頭も、明らかに「怒りの日」の変奏である。思うに、「怒りの日」への過剰な愛には、「終わりの民」(ベルジャーエフ)ロシア人の精神性にどこか深く通じるものがある。それははたして罪なのか。ラフマニノフもまたそのロシア性ゆえ、いや「終わり」への愛ゆえ、今回の侵攻の潜在的な加担者とみなされることになるのか。(2024/3)