エッセイ

2024 9/6

フョードル・カラマーゾフを殺したのはだれか

エッセイ

(1) 定説への挑戦

すべての学問的営みは、定説への挑戦である。そしてその面白さは、何も科学や歴史のジャンルに限られるわけではない。ロシア文学に半世紀以上親しんできた私の研究史にも、「新発見」にまつわる思い出深い事件がちらほら見え隠れする。それらの真偽を確かめようと願い、私自身どれほど多くの時間を費やしてきたことか。
ソ連崩壊からまもない1993年7月、革命詩人ウラジーミル・マヤコフスキーの生誕百年祭に招かれた私は、知人の研究者から、モスクワは今、詩人のピストル自殺説に異を唱え、これを秘密警察(GPU)による謀殺だとするジャーナリストの話題で持ちきりだと教えられた。その知人は、「かなり眉唾だがね」と鼻であしらうように笑ったが、式典後半で紹介された最新のドキュメンタリー番組を食い入るように見るうち、これはただごとではないとの予感が湧き起こった。「出口なし」と題されたその番組は、詩人の死に最初の疑念を発したエイゼンシテインの引用を踏まえた、きわめて本格的なもので、かねてマヤコフスキーの伝記に関心を持ち続けてきた私は、たちまちその虜となった。
翌年4月、国際交流基金の派遣により、一年のモスクワ留学の機会を得たのをきっかけに、私はさっそく資料集めに取りかかった。脳裏に、マヤコフスキー伝の書き換えという野心が芽生えたのはこの時である。それから三年を経た1998年、『破滅のマヤコフスキー』と題する、かなり分量のある評伝を書き上げ、滞りなく上梓に漕ぎつけることができた。正直に書くと、執筆中の私は、謀殺説の誘惑に何度も引きこまれそうになった。だが、最後は一切の迷いを捨てて、マヤコフスキーの死は謀殺ではなく、鬱が原因との結論で全体を締めくくった。
それから5年ほど経た2003年、私は再び、「新説」の登場に悩まされることになった。ドストエフスキーに熱中した学生時代以来、私が長く定説として、何らの疑いもなく受け入れてきた父ミハイルの死因をめぐる話題である。これまで手にしてきた伝記の多くは、父ミハイルは、1939年6月にモスクワの南130キロの領地ダロヴォーエとチェルマシニャーの境界地で農奴たちに殺された、というのが定説とされていた。ソ連時代に出た伝記は、概ねこの謀殺説を踏襲するもので、私自身、その説を前提としつつ、私なりのドストエフスキー論を組み立ててきた(『ドストエフスキー 父殺しの文学』)。そして実際に、父殺しの現地を訪れ、現地に暮らす古老の一人に聞き取り調査まで行ったほどである(詳しくは『ドストエフスキーとの旅』)。当時、私はジークムント・フロイトが著した論文「ドストエフスキーと父親殺し」のみごとな論証に強い影響を受けていたので、謀殺説の登場にはかなりショックを受けた。フロイトは、ドストエフスキー家に代々伝わる噂や、みずからのエディプス・コンプレックス理論を利用し、かつ『カラマーゾフの兄弟』の作品それ自体に依拠しつつ、「父殺し」をめぐる複雑な真相を解き明かしていた。
ところが、ソ連崩壊後、発掘された法医学関連のアーカイヴによって農奴たちによる謀殺という説は覆った。父ミハイルの死因は、彼が長年苦しめられてきた「痔瘻」に起因する、脳卒中によるものであることが、「科学的に」証明されたのだ。今日の医学的な観点から、「痔瘻」と脳卒中の関連づけは、いささか荒唐無稽な印象を与えるが、当時として「痔瘻」はかなり幅広い概念をカバーする医学用語として認知されていたらしい。いずれにせよ、脳卒中による病死という事態は、大酒飲みの父親がたたどる末路として、ある程度は想定しうる事態だけに、人一倍ロマンティストの私は、一時期途方に暮れた。ところがその後まもなく、この私のうちにも、少なからず有効な反撃の材料が残されていることに気づかされた。かりに父ミハイル殺しが事実であるにせよ、事実そのものと第三者に伝達された事実との間には時として根本的ズレが生じえるし、そもそも通信手段が極度に制限されていた時代に、はたして人は真実と伝聞との間にどれほど正確な線引きができただろうか、とそんなふうな理屈がじわじわと頭をもたげてきたのだ。逆に父親の自然死が事実だったとしても、伝達手段のいかんによって受け取る側の理解は代わってくる。また、たとえどれほど確実とみられる事実でも、何らの根拠もなしに、あるいは媒介者のささやかな悪意によって大きくねじ曲げられる可能性さえある。他方、ドストエフスキー自身が父の死をどう受けとめたかは、本人の自意識にかかわるきわめてパーソナルな問題であり、法医学が下した結論と大きく矛盾したところで横から口出しできる筋合いのものではない。こうして、『カラマーゾフの兄弟』を作家ドストエフスキーの自伝であるとする私の立場は、いささか苦しい自己防御のかたちではあるものの、辛うじてKOを免れた。その後私は、父親の死はたしかに病死だったかもしれない、しかしそれでも、父殺しの犯人はいる、という、一見して矛盾した論理を組み立て、それを手がかりにして父殺しのミステリーの解明に乗り出した。とにもかくにも、父ミハイルの死の知らせに接したドストエフスキーのうちに、それから間もないある日(おそらく父親の死から二か月後の夏のことと思われる)、何かしら劇的なドラマが生じた。そしてそれを、彼は心密かに「父殺し(отцеубийство)」と名付けた・・・・・・。
けれど、私のそうした抽象的な主張に肉付けを施してくれる証拠は、どこにも見つからず、頼りになるのは、ソ連時代の初期に行われた正式の「調査」結果だけという情けない状況が続く。父親の病死説を覆すニュースがネット上に現れてはいないか、と折にふれアクセスを試みたが、目立ったニュースは何ひとつとしてない。かえって、ソ連時代に流布した農奴たちによる謀殺説をいまだに盲信する「最新の」記事が幅を利かせている現実が見えてきた。ところが、そこで小さな奇跡が起こった。これまでとくに気にすることのなかった有名な手紙の一行が、異様にまばゆい光を放ちだしたのだ。それが、1939年6月の父の死から二か月後の夏に書かれた手紙である。
十七才のドストエフスキーは兄ミハイル宛てに書いている。
「人間は謎です。謎は解かれなくてなりません。そして生涯その謎を解きつづけたからといって、時間を無駄にしたとはいえないでしょう。ぼくがこの謎に取り組むのは、人間でありたいからです」
少年ドストエフスキーは、まさにこの一行を書き記しながら、人生ではじめて大きな謎に直面していると感じた。これほどにも重みのある一文を書き記すには、それだけの衝動がなければならない。その衝動は、彼がこの世を去るまで、約四十年間にわたって持続するが、その内実が揺らぐことはなかった。では、この時彼の内心に起こったドラマとは果たして何であったのか。答えから先に言えば、父親の死には、自分も深く責任がある、という認識の誕生である。(つづく)

Category

世田谷文学館のホームページに戻る