2025年11月
悲しみの太宰 1-2
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「斜陽」を読み終えると、時をおかずに、過去何十年にもわたって出会いを恐れつづけてきた「人間失格」に向かいあった。べつにこの小説に感化されることが怖かったわけではない。ただ、野放図な自我の戯れと、生きる気力を阻喪しそうな自堕落な世界に近づくことそのものに強い倫理的な戸惑いを覚えていただけである。「人間失格」に長く偏見を抱きつづけてきた理由は他にもある。終戦、結核、ドラッグといったトピックを思い浮かべるだけで、何かたちの悪いウイルスに心の奥まで感染しそうな薄気味悪さを感じつづけてきた。だが、そうした心理的抵抗を乗りこえて読みとおした「人間失格」から、私は圧倒的といえるほどの働きかけを受け、還暦を迎えて初めてこの小説に出合えたことを、むしろ僥倖と感じたのだった。私の太宰像は、こうして順繰りに読んだ「斜陽」、「ヴィヨンの妻」、「人間失格」の三作によっておぼろげながらも骨格ができあがった。
答え。端的に言って、その骨格は一つの疑問から成り立っている。その疑問とは何か?
現実というヴェールの向こうで、いま、だれが、何を演じているのか?
多くの人間は、いま、ヴェールの向こう側の世界にありきたりな想像を馳せながら、そこで想像されたものが現実であると、素朴に、それこそありきたりに理解している。いや、理解したつもりでいる。しかしながらそれが「客観的な現実」であることを裏付ける証拠などはどこにもなく、かりにその現実にかすかでも疑いをもち、不安を感じるなら、すぐにでもヴェールを引き裂くか、ヴェールの向こう側をのぞきに走り出さなくてはならない。現実は、否応なく二つの顔をもっている。「客観的な現実」と、私たちが認識し、理解している「つもり」の現実の二つ。その二つの顔は、できればつねにイコールのものであってほしいというのが普通人の願いだが、そうは問屋が卸さない。だれひとりそれらをイコールであると保証することはできない。もっといえば、私たちが人間であるかぎりにおいて(つまり、認識する主体であるかぎりにおいて)、客観的な「現実」に到達することは不可能なのだ。こうなれば、もう、信じるしかない。私たちが目にできるのは、つねに「現実もどき」であり、その「現実もどき」を「現実」と定義し、認識しつづける、それが宿命であり、社会生活の基本原則である。あるいはそれこそが生きるということの意味そのものといっても過言ではない。ところが、この「現実もどき」や「らしき」や「つもり」といったヴェールをいったん剝ぎとったが最後、人間は、時として「客観的な現実」の恐ろしいしっぺ返しにあい、その結果、猜疑心のとりことなって、思いもかけない災厄の犠牲者に仕立てられる。事実、ヴェールを剝ぎとる行為が、喜びや幸せをもたらしてくれることなどほとんどない。「客観的な現実」は、恐ろしい形相ととも、「客観的な現実」の何たるかを見きわめようとする不埒な人間どもに襲いかかる。なぜなら、私がここでいう「客観的な現実」とは、じつは神が支配すべき領分、いや神のみが知りえる世界だからである。ところが、悲しいことに、私たちはしばしば、意図するしないにかかわらず、ヴェールの向こう側のむきだしの現実に立ちあわされる。むきだしの現実との遭遇は、その人間にとってトラウマとなり、その結果、もはや二度と「らしさ」にも「つもり」にも甘んじることができなくなる……。
「斜陽」、「ヴィヨンの妻」、「人間失格」の三作品をとおして私がいまイメージする太宰とは、そんな「らしさ」と「つもり」を失った人間である。そして彼が経験した「恐怖」とは、神の怒りに触れ、楽園の外に投げ出された男の赤裸々な恐怖とでも表現できるだろうか。いたるところで二枚舌を駆使し、マゾヒスティックな道化芝居に興じるときの太宰も、むろん、例外なくその「恐怖」を引きずっている。(つづく)