エッセイ
悲しみの太宰 2-1
「女は眠るために生きているのではないかしら」(「人間失格」)
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「恐怖」の霊気を、太宰にゆかりのある場所で少しでも感じとりたいと思って三鷹市・禅林寺を訪ねた。一〇月も終わり近い日の夜八時過ぎ――。ライトアップされた唐様の白い山門は、思いがけずあっけらかんとして、ジョルジョ・デ・キリコの絵でも見ているような奇妙な非現実感にふわりと包みこまれる。だが、掃き清められた境内を勝手にぶらつき、方丈の裏手にある太宰の墓所にまで足をのばすのはいささか気が引けた。山門に取りつけられた監視カメラのせいというより、境内に満ちわたる静かな霊気を乱したくないとの思いがあったのだ。そしていま、何の心構えもなしに太宰の墓とじかに向かいあえば、きっと後悔に襲われるという予感もまた……。
太宰の墓がここに置かれたのは、本人のたっての願いだったというが、その願いとは、三〇代に書かれた小品「花吹雪」に記された次の一行だった。
私の汚い骨も、こんな小綺麗な墓地の片隅に埋められたら、死後の救いがあるかも知れないと(後略)
藤棚の下を通りぬけ、鷗外の遺言碑の傍らにしばらくたたずんでから、夜空に大きく翼をひろげたイチョウの大樹を見あげる。思ったよりも夜空の大きさが勝って、「古代の荒々しい」気配を感じるまでにはいたらない。と、そのとき、ちょっとした思いちがいをしている自分に気づいて、われに返る。「人間失格」の葉蔵が「恐怖」を感じたのは、「神社の杉木立」で、「白衣の御神体」に出くわしたとき、と書いてあった。そうか、あの「恐怖」は、禅寺ではなくて、「神社の杉木立」というところがみそだったのか。一瞬、興が醒めて、隣接する八幡大神社の黒々とした木々に目をやる。枝葉の広がりでは、禅林寺よりかなり分がある。私は急いで山門に向かい、駐車場の間を通りぬけて、神社に足を向けた。そこでなら、ひょっとして「白衣の御神体」の何かもイメージできるかもしれない……。
それにしても、内縁の妻の不義を目撃した葉蔵の恐怖は、現実にどのような性質のものだったのだろうか。単純に凍りついたというにすぎなかったのか。「人間失格」には、この事件について、少し矛盾していると思われる記述が見られる。「第二の手記」の葉蔵は次のように豪語しているのだ。
自分には、もともと所有慾というものは薄く、また、たまに幽かに惜しむ気持はあっても、その所有権を敢然と主張し、人と争うほどの気力が無いのでした。のちに、自分は、自分の内縁の妻が犯されるのを、黙って見ていた事さえあったほどなのです。
これは、「古代の荒々しい恐怖」というのとは少しちがう。ことによるとこの二つの文章は、葉蔵の虚勢ないし強がりにすぎなかったのではないか。事件からの一定の時間の経過が、彼の記憶に微妙なアーティキュレーションを生んだと考えることもできる。事実、事件の現場を目撃した彼は、自分でも気づくことのなかった矛盾にさらされていた。「二匹の動物」のからみあいが呼び起こした「恐怖」は、むしろより根本的に彼の「所有欲」に通じあい、そのありかを白日のもとに照らした。言い換えると、近代的ともいうべき「所有」の観念は突きくずされ、原始的共同体による共有を強制された。葉蔵において、「所有」は、封建的な秩序によって辛うじて保証される「信頼」(=忠義)の上に成りたっていたが、その実、終戦によって時代の顔つきは根本から変わり、メレシコフスキーのいう「来るべき賤民」の時代がすでに到来していた。それこそが、戦前から戦後にまたがるわずか五年間に経験された価値転換のドラマだったのだろう。太宰にはもはや、一人の生身として客観的に裏付けられる優位性はない。すべてが平準化され、日常化されてしまった以上、「古代の荒々しい恐怖」という表現そのものが、葉蔵の時代錯誤にも似たおごりを否応なく露呈させる。
では、この恐怖から逃れるすべはどこにあるのか。
それには、葉蔵自身書いているとおり、所有=非所有という秩序からあえて離脱する必要があるということだ。そして世界の無意味性をみずからが徹底して演じきるしかすべはない。道化役者は、世界の無意味性をみずから納得するために演技しつづける。では、その対極にある有意味とは何か? 有意味の世界が、もはや確実な手触りとして何ひとつもちえない以上、アイロニカルに反転し、「客観的な現実」、むきだしの現実がその代役を果たすことになる。有意味の世界では、「二匹の動物」こそが主役である。それによって引き起こされた「古代の荒々しい恐怖」が何よりの証である。思えば、葉蔵にとって、「三十歳前後の無学な小男の商人」こそが、まさに現実というヴェールの向こうに隠された「客観的な現実」だったのだ。神の不可知の領分がなまめかしく暴露され、葉蔵は、「らしさ」と「つもり」の黄金時代から締め出された。端的に言うなら、葉蔵の「恐怖」は、聖なる母を奪われた、聖なる母を寝とられたイエスの恐怖に比べていい。その意味で、「人間失格」とは、まぎれもなく楽園喪失の物語なのである。(つづく)