エッセイ
悲しみの太宰 2-3
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閑話休題。
太宰が心から愛した作家の一人にアントン・チェーホフがいる。しかし、作家としての両者の資質にどこまで共通部分があったかというと、少なからず疑問が残る。内面の営みはどうあれ、少なくとも彼の伝記に現れる可視的側面において、やはり露ほども類似点を見ることができないからだ。チェーホフは、内面の吐露という側面においては、慎重に慎重を重ね、徹底して隠蔽を志した。物語が自伝として見られることに極端な警戒心を抱いていたことが知られる。ただ、社会的な環境、外部的な条件という点で見ると、両者には少なからず共通点が見出せることも事実である。第一に、戦後の混乱期と、農奴解放後のロシアという時代的類似性である。また、階級意識の多様化という側面も見逃せない一面である。
羞恥の通り、太宰が地主貴族出身であったのに対し、チェーホフは、祖父の代に農奴の身をあがなった下層の出身だった。出自の自覚は、彼の小説が、テーマ面で上滑りするのを防いだとも言ってよいかもしれない。先ほど隠蔽という言葉を用いて少し説明したが、チェーホフは徹底して仮面をかぶりつづけた作家であり、彼の作家としての態度はまさに「不偏不党」に尽きるものだった。アレクサンドル二世暗殺以降、にわかに到来した「黄昏の時代」の影響もある。「裏切り」や「不信」をテーマに扱った作品は少なくないが、それらはあくまでも、落剝した貴族たちのニヒリズムとして突き放そうという、ひややかな批評意識に貫かれている。そうはいえ、チェーホフ自身もまた、太宰が陥った「不信」の地獄を、間接的ながらも経験した作家であったことはまちがいない。ただし、チェーホフにおいて、それがいつ、どの時点での出来事であったのか、明らかではない。時代全体に覆いはじめる価値観念の転倒を前に、チェーホフも目を皿にして、時代と人々の心の、不気味な動きを見守りつづけた。また、太宰に通じるペシミズムを、強く助長する根本原因があった。結核の病である。
二四の年に結核の発見にいたったチェーホフは、自らの死の恐怖を克服したいと願い、マルクス・アウレリウスの「自省録」を読み、ソロモンの「伝道の書」に強い共感を覚えながら、徐々にペシミズムの傾向を強めていく。ある意味では真情吐露とも、また別の意味では、乾いた現実認識とも解釈しえる「無常観」が、この時代の彼の心に深く根を下ろしていたことを物語る一文がある。とある女性の児童文学者に宛てた手紙である。
この世のことはすべて相対的で近似的なのです。児童文学を読んでさえ堕落し、詩篇やソロモンの箴言のなかの煽情的な個所を一種特別の興味を覚えて読む人びともあれば、人生の汚さを知れば知るほど清らかになる人もある。
チェーホフはさらに、女性の言葉を受け、「世界が『ろくでなしの男女で一杯である』というのは、確かにその通りです」とも書き添えている。これらの言葉に見るように、二〇代後半の作家の青春をとらえた「思想」とは、まさにある種の倫理的な痛みを伴ったペシミズムだった。人間存在の奇怪さ、あるいは曖昧さといったものにたいする冷静なまなざしは、作家の内部における価値観念のア・プリオリな崩壊といったものさえ覗かせている。だが、眼光紙背に徹する読みをとおして、彼はやがて、アウレリウスの「平常心」も、ソロモンの「空の空」も、結局は、人間の心を堕落へと陥れる受け身のニヒリズムにすぎないとの認識に向かっていく。一八九〇年のサハリン行は、現実の無限に多様なリアリティに裸身をさらし、より能動的に生きるためにみずからに課した試練であり、冒険だった。そして現実を受け入れるという姿勢において、彼は、二〇代後半を生きる精神的なよすがとした哲学をふりきり、ニヒリズムを強者の哲学とみなしつつ、ニヒリズムに甘える貴族たちをきびしく指弾していくのである。その結果、彼が立ちいたった一つの立場こそ、「日常性」は唾棄すべきである、だが、日常性を唾棄しきることはできない、という両義的な態度だった。
日常性へのいら立ちと日常性への未練――。出来合いの「思想」に足場を見出せないリアリストのチェーホフにとって、このような感情のアンビヴァレンツこそが、かけがえのない思想の磁場たりえたにちがいない。チェーホフは、日常性の中に生起する「恐怖」のドラマが、「人間失格」の葉蔵が経験したような、ある種の階級意識や「所有欲」にのみ根ざすことなく、病的であり、さらには普遍的なレベルで生起しつつあることを見通していたのである。(つづく)