エッセイ

2026 1/28

悲しみの太宰 4-2

エッセイ

話が重複するが、「憑依」の作家の真骨頂とは、シンクロナイゼーション(同期)にある。与えられたモチーフをめぐって、みずからの想像力をフル回転させ、本家本元の血肉を奪いとっていく。彼の作品が少なからず、プレテクストをもつという事実はまさにそうした彼の憑依的資質を示すものである。筒井康隆、辻原登らの作家にもしばしば同じ傾向が現れるが、太宰はこの二人の作家に劣らず、プロットや構成といった外形面につよいこだわりを示すと同時に、物語、いや物語の現場へと鋭く切り込んでいった。ひと言でいうなら、太宰にとっては、小説という器を満たしているリアリティがすべてだった。それさえあれば、みずからの生命力の余剰をもって、パロディという新しい器にどのような(別次元の)リアリティも盛りつけることができる自信があった。その典型的な例が、一九歳の女性読者から送付された日記を題材にした「女生徒」(一九三九)であり、「古伝説とシルレルの詩から」創作した「走れメロス」(一九四〇)であり、福音書に登場するユダの背信をテーマにした「駈込み訴へ」(一九四〇)だった。しかし、対象への自己同化、感情移入の強さという点で一頭地を抜いていたのが、ほかでもない、『新ハムレット』だった。「同期」の例として先に挙げた三作品が、プレテクストの「完成度」という点でけっして高いものではなかったのに対し(断定的な物言いは危険だが、少なくとも福音書の記述が、他の二つと比べ、若干、断片的であることは否定できない)、「ハムレット」は、同様の観点からみて文句なしの高みにあった。事実、太宰自身、『新ハムレット』の序文で次のように書いていた。

「沙翁の『ハムレット』を読むと、やはり天才の巨腕を感ずる。情熱の火柱が太いのである。登場人物の足音が大きいのである。なかなかのものだと思った。この「新ハムレット」などは、かすかな室内楽に過ぎない。」(「はしがき」)

逆に、そうした完成度の高い作品を相手にパロディを書く決心した背景には、先にも述べたように、並々ならぬ動機があったことが想像される。すなわちみずからの人生とのっぴきならぬ関わりがある何かを「ハムレット」の物語に見出したということである。月並みな連想とのそしりを恐れずにいえば、彼が過去にくぐりぬけてきた「地獄」と深く繋がる何か。
すでに述べたとおり、原作『ハムレット』は、父王の亡霊の登場によって幕が切って落とされる。亡き父の亡霊の遺言をそのまま鵜呑みにすることができないハムレットは、遺言を裏付ける確証を求め、旅芸人の一座を利用して、にわか作りの物語をこしらえ、大芝居を打ってでた。ここで明らかになるのは、「ハムレット」とは、過去の埃に覆われた真実を発見するための熾烈な戦いを描いた作品だということだ。そしてこの、真実の発見から戦いへと向かうⅤ字型の転換点に位置しているのが、ギリシャ悲劇にいう「アナグノーリシス」(認知)だったのである。シェークスピアの原作において、その「認知」を最終的に可能にしたものこそが、旅回りの一座が演じた「ゴンザーゴ殺し」の一場面だった。
ところが『新ハムレット』では、この劇中劇が、出来の悪い息子がしでかす不始末といった程度のあいまいな役割しか付与されていない。劇中劇それ自体が、犯罪の露見という劇的モメントからは、はるかに遠い地点で演じられるのだ。むろん、父王殺害の場面もない。旅芸人の一座に代わって役を演じるのは、ハムレット、ホレーショー、ポローニヤスの三人からなる「正義の劇団」。そして「ゴンザーゴ殺し」に代わって選ばれる演目が、「イギリスの或ある女流作家の傑作、『迎え火』という劇詩という変わりようである(注、「はしがき」では、「クリスチナ・ロセチの「時と亡霊」とある)。
太宰は、この大胆な書き換えによって大きな混乱に直面する。そこで改めて「ハムレット」のパロディ化の真意について太宰自身どう語っていたかを確かめてみよう。

「読者にお断りして置きたいのは、この作品が、沙翁の『ハムレット』の註釈書でもなし、または、新解釈の書でも決してないという事である。これは、やはり作者の勝手な、創造の遊戯に過ぎないのである。人物の名前と、だいたいの環境だけを、沙翁の『ハムレット』から拝借して、一つの不幸な家庭を書いた。それ以上の、学問的、または政治的な意味は、みじんも無い。狭い、心理の実験である」(『新ハムレット』)

「一つの不幸な家庭」とは、何か。父王一家の家庭を意味していないことは、解説全体のトーンから明白だろう。つまり、太宰の脳裏に、具体的な家庭はおそらく存在してはいなかった。しかし、抽象的な「家庭」に何かしら取返しのつかない不幸が起こったことだけは事実である。太宰は、原作「ハムレット」の世界に、もう一つの、不幸なドラマを垣間見ていたのである。端的に言えば、太宰自身の過去に深く繋がるドラマ……
いずれにせよ、『新ハムレット』と「ハムレット」の間のディテールの相違は驚くべきものがある。そこでは、幾重ものねじれが生じており、この古典の傑作に馴染んできた読者は、随所で泡を食わされる。そしてそのねじれは、無限の解釈を派生させていくような期待さえ読者に抱かせる。
そこでとりあえず、プロット面での大きな変更点を三つほど列記しておこう。
一、ポローニアス(『新ハムレット』ではポローニヤス)の死――原作では、ポローニアスはハムレットによって殺されるが、『新ハムレット』では、自分に疑いをもったとの理由で新国王クローディアス(同・クローヂヤス)の手にかかって死ぬ。
二、レアティーズ(同・レヤチーズ)の死――原作では、レアティーズは最後にハムレットとの決闘で死ぬが、『新ハムレット』では、フランスへの留学の途中、ノルウェーとの海戦で死ぬ。
三、ガートルード(同・ガーツルード)の死――原作では、クローディアスが用意した毒杯をみずから飲みほして死ぬが、『新ハムレット』では、劇中劇のあと、まもなく小川に身投げして死ぬ。
では、内的な側面ではどうか。読者が一読して目をみはるのは、原作以上に引き裂かれたハムレットの内面である。半ば偶像破壊的ともいえる底意地をにじませたパッセージがいくつも登場する。それは、戯作者太宰の本能が思わず牙をむいた瞬間と呼ぶことも可能である。

「二三にもなって、女の子のように、いつまでも、先王や母の後を追っています」(同)

また、母親のガートルードに対し、半ば同性愛的な愛情を抱く(「泣くほど好きです」)オフィーリア(同・オフィリヤ)の描写もどこか異様な雰囲気を漂わせている。オフィーリアの性格描写でとくに驚かされるのが、ハムレットにたいする自覚的かつ批判的なまなざしだろう。少なくともハムレットとの関係性においてオフィーリアは完全に自立しているのだ。

「失礼ながら、お鼻が長過ぎます。お眼が小さく、眉も、太すぎます。お歯も、ひどく悪いようですし」。(同)

脱線するが、太宰は、鼻と歯にたいしてつよいこだわりを持っていた。「虚構の春」に引用される次の一句も、太宰の読者には広くお馴染みのものだろう。

「歯こぼれし 口の寂さや 三ッ日月」(「虚構の春」)

また、太宰に惹きつけられる女たちの心理分析が、これもまたオフィーリアの犀利な観察力をとおして綿密に書きこまれている。

「ただ、王妃さまのお乳の匂いが、ハムレットさまのおからだのどこかに感ぜられて、それゆえ、たまらなくおいとしく思われ……」。(同)

それをすべてふくみこんだうえで、オフィーリアは次のように締めくくるのだ(つまり、原作に近いポジティブな人物像へと戻る)。

「此の世で一ばんお情の深いおかた」(同)

(つづく)

Category

世田谷文学館のホームページに戻る