2026年09月

2026 9/9

悲しみの太宰 11-3

第二幕に入って、物語は激しい動きを見せはじめる。
数枝の部屋に、夜這いのようにして、幼馴染みの清蔵が忍びこんでくる。清蔵は、懐に包丁を忍ばせ、すでに一〇年あまりに及ぶ数枝への思慕を吐露し、決断を迫る。だが、数枝はがんとしてそれに応じない。そのとき、二人のせっぱつまったやりとりを、襖の向こうで盗み聞きしていたのが、伝兵衛の後妻あさだった。数枝の身の危険を察知したあさは、清蔵に向かって「早くお嫁をもらいなさい。数枝には、もう、……」と語り、数枝にはすでに新しい愛人がいることを仄めかす。あさのひと言から、数枝がいま置かれている状況を察した清蔵は、数枝に向かって「あなたは蛇だ、淫乱だ、女郎だ」と叫び、包丁を取り上げて清蔵を刺そうとするあさの腕を払いながら、「気が狂ったか、糞婆め」と罵声を浴びせて、外にのがれ出る。
第三幕の舞台は、それから一〇日ほど経た伝兵衛宅の奥の間。事件以来、日に日に衰弱するあさは、自分の看病に余念のない数枝に向かって、その秘めたる思いを告白する。

数枝、あたしはもう、なおりたくない。こうしてお前に看病してもらいながら早く死にたい。あたしには、それが一ばん仕合せなのです。

一読して、二人がいま、幸せの絶頂にいることが明らかである。太宰は、この場面を描きながら、脳裏のどこかで同性愛にめざめた数枝とあさの「心中」をイメージしていたのではないかとさえ思う。そのことを裏付けてくれるのは、数枝が、東京の若い画学生に宛てた別れの手紙である。手紙のなかで数枝は、こう告白する。

あたしはこの母を、あたしの命よりも愛しています。そうして母も、それと同じくらいあたしを愛しているのです。(中略)この東北のはての生れた家へ帰りたくてならなかったのは、いま考えてみると、たしかにあたしは死ぬる前にいまいちどあたしの美しい母に逢いたい一念からだったのでした。

では、この数枝とあさの二人の愛は、はたしてどこに向かうのか。心中だろうか。むろん、心中は考えられない。数枝が夢見る未来は、むしろ新しい「ユートピア」での生活である。

ねえ、アナーキーってどんな事なの? あたしは、それは、支那の桃源境みたいなものを作ってみる事じゃないかと思うの。気の合った友だちばかりで田畑を耕して、桃や梨や林檎の木を植えて、ラジオも聞かず、新聞も読まず(中略)みんなが自分の過去の罪を自覚して気が弱くて、それこそ、おのれを愛するが如く隣人を愛して、そうして疲れたら眠って、そんな部落を作れないものかしら。

数枝の「同性愛」とその喜びを現実化する手段としての「アナーキー」――。要約すれば、罪深き人々の共同体ということになる。数枝には、戦地で死んだ夫を裏切り、若い画学生と同棲しているという後ろめたさがある。その彼女が、背信の意識から免れるには、新しい価値観にもとづいて生活をはじめることが不可欠である。数枝は、そこで、原始キリスト教的な共同体にも似た「アナーキー」を夢見はじめる。「アナーキー」は、まさに太宰自身のキリスト教観の根源と通じあう理念である。
ところが、太宰は、最終的に、数枝の素朴な夢をずたずたに切り裂いてしまう。
「自分の過去の罪」を自覚することなく、欲望の赴くままに生きる人間たちの存在である。あさは、いまから六年前、同じ清蔵から夜這いされた過去を告白する。

数枝、あのひとは、六年前、ちょうどあのようにして、このあたしを・・・。

この告白が、数枝の夢を決定的に打ち砕く。数枝は、画学生に宛てた手紙を落とし、「低い異様の笑声」を発しながら、叫ぶ。

桃源境、ユートピア、お百姓、ばかばかしい。みんな、ばかばかしい。これが日本の現実なのだわ。

戯曲ジャンルでの、最初の本格的な取り組みである「冬の花火」で、太宰は何を伝えようとしていたのか。答えは、太宰が、フランス文学者、河盛好蔵に宛てた手紙の中に記されている。

あのドラマの思想といつては、ルカ伝七章四十七の「赦さるる事の少き者は、その愛する事もまた少し」です。自身に罪の意識のない奴は薄情だ、罪深きものは愛情深し、といふのがテーマで、だから、どうしても、あさは、あのやうな過去を持ってゐなければならないんです。いちどあやまちを犯した女は優しい、といふのが私の確信なんです。

では、太宰がここで念頭に置いていた「罪深きもの」「あやまちを犯した女」とは、だれか。むろん、男女の性別をこえ、「罪深きもの」のイメージと自分(=太宰)を等号で結んでいた可能性もなくはない。しかし、ここには、作家のよりひめやかな告白が隠されているのを私は感じる。少し大胆に想像力をめぐらせてみよう。ことによると太宰は、「あのひとは、六年前……」と告白した四五歳のあさのうちに、義弟の画学生(初代より二歳年下の小館善四郎)と姦通をおかした初代の姿をほのかに二重写しさせていたのではないか。ちなみに、「冬の花火」の執筆に遡る半年あまり前、太宰は、中国・青島での初代の死を知った。終戦の訪れのなかで、太宰の古い記憶に、一つの幕が下ろされようとしていた。
いずれにしても、太宰は、数枝と継母あさの関係をあえて「同性愛」になぞらえることで、二人の親子関係の特異さを印象づけようとしていた。逆に、太宰は、この戯曲に鏤【ちりば】められている数々のディテールから、これが自伝と取られることを恐れ、登場人物同士の関係性をわざと複雑にしたと考えてよい。自分の存在を隠し、そのうえで自分の過去のもう一つのバリエーションを構築してみせる。その手がかりとなるのが、主人公「数枝」の名前である。太宰は、なぜ、未完の中編「火の鳥」に登場した数枝と同じ登場人物を配したのか。いま、私には、この複雑きわまる問いに答えるだけの力がなく、漠然とした答え方しかできない。すなわち、「冬の花火」には、太宰のなかで幾重にも輪を広げる錯綜した内面ドラマが隠されており、幾重にも錯綜した思念が息づいている、その意味で、「冬の花火」は、まさに「種も仕掛けもない太宰さん自身」(千田是也)のドラマでもある、と。(つづく)

Category

世田谷文学館のホームページに戻る