2023 4/28

宮部みゆきの「悪霊」 ―― audible『模倣犯』雑感 1

宮部みゆきさんの小説に向き合うのは、これが二度目。最初の出会いは、今から10年ほど前のことだ。『ソロモンの偽証』が映画化されるというので、興味がてら読みはじめた。月並みな言葉になるが、予想をはるかにこえる衝撃を受けた。これは、21世紀版『カラマーゾフの兄弟』ではないかという、思いもかけぬヒントまで頭に浮かんだ。その後、ドストエフスキーがらみの講演に立つたび、『ソロモンの偽証』を話題に持ち出した。そしていつか宮部さんと出会える日が訪れたなら、彼女に、こう尋ねてみたいとも広言したのだった。
「ドストエフスキーをお読みになったことはありますか?」
その機会が、思いもかけず実現することになった。世田谷文学館友の会が主催する講演会に登壇されるという。その日の準備を兼ねて、彼女の代表作の一つ『模倣犯』に挑戦することにした。この機会を逃したら一生読むことはないかもしれない、とさえ予感しながら。こうして、読むと決意し、アマゾンにアクセスしたまではよかったのだが、たちまち落胆に見舞われた。400万部を超える記録的なヒット作となり、英語訳まで出ている日本を代表するミステリー小説が、電子版で読めない。私の場合、悲しいかな、選書の基準がほとんどキンドル任せとなっているので、電子版で読めないというのは、かなりの痛手である。仕方なく文庫本を取り寄せることにしたが、正直、読み切れる自信は半減した。ところが、ここに一つ、驚くべき抜け道があることがわかった。なんと、audibleで読める。
それからまる2週間、空き時間のほとんどすべてを費やして『模倣犯』の世界に没入しつづけた。まさに没入という言葉がふさわしかった。総計75時間の壮大な旅。感覚的に、目で読む速度の1.5倍の時間を必要とした。はたしてこれを、「読書」と呼ぶことができるのか。私は、その言葉を使うことを躊躇い、といって「聴書」などという珍妙な造語にもなじむことができないまま、知人、友人に『模倣犯』の桁外れの面白さを説き、audlibe の威力について触れ回った。新幹線の車中で、食後のベッドで、一日六千歩の散歩の友として。Audibleの唯一の欠点は、たとえば軽い読み物の場合でも飛ばし読みができないことだ。いやおうなく時間に付き合わされる。だが、この『模倣犯』のような、スリルに溢れる本格小説の場合には、かえってその制約が嬉しい。そういえば、もう一つ嬉しい発見があった。書類カバンを持たず、手ぶらで外出することが怖くなくなったことだ。耳たぶの間にイヤリングのようにAirPods の角を差しこみ、スーツのポケットには、手のひらに収まる強力な充電ケースを偲ばせる。それだけでもう全能感が味わえる。(つづく)

Category

世田谷文学館のホームページに戻る