2024 10/10

フョードル・カラマーゾフを殺したのはだれか Ⅱ

エッセイ

(2) つけいる隙、または「告白」のリアリティ

だが、歴史上の(あるいは伝記的なといってもよい)問題ではなく、小説のテクスト解釈をめぐって従来の説を覆すというのは、かなり勇気のいるものだ。歴史上の問題であれば、広い意味での「物証」さえ提出できれば、それで一気にけりがつく。だが、小説上の真実をめぐる議論では、それも長い歴史のなかで築き上げられた定説の場合、新たな物証と呼べるものの提示はなかなか期待できず、あくまでも解釈すなわち読み替えが決め手となる。したがって、「致命的な誤読」とか、「重大な事実誤認」とかいったセンセーショナルな話題は、結局のところ、どこかの段階で雲散霧消してしまうのが一般である。アカデミズムの壁は高く、滅多なことでは、新説は受け入れられない。そもそも、100年単位で誤読が引き継がれるなどという事態は、そうそうあるものではない。例えてみよう。150年近く前に書かれた世界的に知られるコナン・ドイルやアガサ・クリスティの小説において、作家が真犯人を読み違えるなどといった事態が果たして考えうるだろうか。何しろ、これまで一千万人以上の読者の監視にさらされ続けてきたテクストであり、作者自身が、はっきりと犯人を名指ししているとあれば猶更である。確かに作者が曖昧なかたちで書き残した部分の指摘や、勘違いした部分につけ込み、そこから新説を展開できる可能性もなくはないだろう。だが、そうしたアプローチは、概ね、邪道とみられて、良識あるアカデミズムの世界では邪険に取り扱われるのが習わしである。当然、学術的論文では、論文それ自体の品格を疑われないように、意識的に引用から外されるのが普通である。先ほど、作者が勘違いした部分につけ込み、という可能性を示唆したが、その場合、従来の読者はそのミスを大目に見てきただけのこと、といった落ちも考えられる。ちなみに、犯人探しの話題からは少しずれるが、作者の勘違いの例を一つだけドストエフスキーの作品から取り上げておくことにする。彼の五大長編の一つ『未成年』では、第一(二)部と第三部で、同じ登場人物が名前、父称ともに全く別の名称で登場する(Дарья Онисимовна→ Настасья Егорова)。これは明らかに作家ないしは編集サイドの見落としとみるべきものだが、今日、刊行された『未成年』のテクストでは、技術上のミスとの判断からこれを訂正して出版している例もあれば、あくまでも初出テクスト(作者の最終校正を經たテクスト)を重視する立場にこだわり、作家の「ミス」を訂正せずにそのまま出版している例もある。かりに後者のテクストを読解の対象とした際、思いもかけない解釈の地平が開けてくる可能性があるが、必ずしも生産的な仕事とはいえないと思う。
さて、これから紹介する「新説」は、これを好意的にとれば、150年に及ぶ『カラマーゾフの兄弟』読解の歴史を根底から覆す、野心的な試みと評価してよい。しかも挑戦者は、近年、種々のスキャンダラスな新説を発表して物議を醸しているアマチュアのドストエフスキー研究者で物理学者。私自身その新説の信ぴょう性に疑いをもち、その論証をたどるうちにあらためて『カラマーゾフの兄弟』を読み直す必要に迫られた。新説は、果たして信頼に足るものか。いや、どこまで信じ切ることができるか。まさに真剣勝負である。
最初に、フョードル・カラマーゾフ殺し犯をめぐる従来の定説から紹介しておこう。定説というよりも、ごく一般的な理解というべきかもしれない。問題となるのは、『カラマーゾフの兄弟』第三部の後半、正確には、第三部第九編である。この第九編では、フョードル殺人事件の真犯人をめぐって、イワンとスメルジャコフの間で三度の話しあいがもたれ、スメルジャコフの「告白」を通して最終的に、フョードル殺しの正犯は、使嗾者たるイワン、実行犯は、スメルジャコフという結論で落着する。息づまるような腹の探りあいを経て、スメルジャコフが、フョードル殺しの場面を口頭する説明するくだりは、驚くばかりに迫真力に満ちており、読者は納得して巻を被う。(つづく)

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