2024 10/17

フョードル・カラマーゾフを殺したのはだれか Ⅲ

エッセイ

(3) 真犯人説

ところが2021年、ドストエフスキー生誕二百年を記念する刊行物の一つで、物理学者を自認する一人のアマチュア研究者による単行本が刊行された(『『カラマーゾフの兄弟』。大小説の謎』)。著者名は、アレクサンドル・ラズーモフ。総ページ数330で、発行部数は五百部と極端に少ないが、装丁その他は、なかなかの押し出しであり、いわゆる際物の類ではないことが一目でわかる。著者のこれまでの執筆歴を見ると、本書はどうやら、雑誌『モスクワ』にかつて断片的に発表された論文2点と、『続編』をめぐる単行本を一つに合体させたものらしく、目次を追っていくだけでその主張はくっきりと見えてくる。すなわち、フョードル・カラマーゾフ殺しの犯人と目されるスメルジャコフは完全に無罪であり、真犯人はべつにいるとする主張である。
ごく大雑把な説明にとどめておくが、ラズーモフが、スメルジャコフ以外の人物を真犯人とした最大の論拠は、『誤審』(第四部第十二篇)でも問題となった「開け放たれた木戸」である。事件当夜、眠りから覚めたカラマーゾフ家の下男グリゴーリーは、木戸の戸締りを怠っていたことを思い出し、庭先に出た。案の定、中庭に通じる木戸の扉が開け放たれていた。とそのとき、暗い中庭を駆け足で横切る人影があり、彼は必死にその人影を追跡した。だが、板張りの垣根に足をかけたその人影に金属物で頭部を殴られ、グリゴーリーは失神してしまう。グリゴーリーはその後、「癲癇」の発作で苦しむスメルジャコフの呻きで目を覚ました妻マルファによって発見され、あやうく一命をとりとめるが、彼が失神する直前に目撃した「木戸」と「ドア」が争点となる。
ごく単純化して結論を述べれば、事件当夜、カラマーゾフ家の屋敷内にいた四人(長男ドミートリー、下男のグリゴーリー夫妻とスメルジャコフ)のうち一人アリバイのないドミートリーが犯人とされ、裁判で20年のシベリア流刑が下される。
では、「開かれた木戸」の何が問題だったのか。
カラマーゾフ家の習慣では、通りに面する門扉の施錠はされず、夜になると中庭に通じる木戸は、内外の両側から鍵が閉められる慣わしだった。その木戸が開いていた理由とは何なのか。
作者による説明が必ずしも十分とは言えないため、読者としてはいささか不満な部分が残るが、頑固者の下男グリゴーリーの主張は正当として受け入れられる(ラズーモフによれば、彼は、真実の言葉の体現者なのだ)。また、グルーシェニカを今や遅しと待ち焦がれる父親フョードルは、扉を開け放っておくことの危険性を十分に察知していたものの(ドミートリーの激しい嫉妬を買う恐れがあった)、彼女を自宅に通すためには、敢えて木戸を開けたままの状態にしておいたと考えていい。しかし、木戸が開いている以上、カラマーゾフ家の敷地内には、上に挙げた四人以外、だれでも入ることができたとの仮説が成り立つ。少なくとも、部外者である読者は、正当にその疑問を抱く権利をもつ。
ラズーモフは、説明する。木戸が開け放たれていたのは、フョードル殺しが起こるよりも前に屋敷に忍び込み、フョードルが殺されるのを密かに待ち受けていた人物がいたことを暗示すると。かりにそれが正しければ、その謎の人物とは果たしてだれなのか。無論、その人物は、例えば、ねじ釘カルプのような流しの強盗であるはずはない。カラマーゾフ家の内情を知り尽くし、なおかつカラマーゾフ家の崩壊を望み、可能ならば、そこから一定の利益を引き出そうとたくらむ邪な人間。また、その夜に、長男のドミートリーが父フョードルを殺害するために必ず姿を現すことを知っている人物。そこで当然、浮かびあがってくるのが、アレクセイ・カラマーゾフである。聖域を設けなければ、むろん、アレクセイを容疑者に見立てることもできるだろう。事実、アレクセイは、カラマーゾフ家に渦をまく混沌の一部始終を知りつくし、不吉な予感に怯えてもいた。仮にフョードルの殺害時刻を午後8時前後と規定した際には、その時間帯のアリバイが彼にはない。わかっているのは、ラキーチンの案内でグルーシェニカの家を訪れた後、修道院に戻っているという事実である。これまで、オレク・リクーシンという作家が、アレクセイ真犯人説を提起し、物議を醸したが、概ね騒ぎを下火となっている。そしてそのリクーシンに代わってラズーモフが新たに白羽の矢としたのが、カラマーゾフ家に不快感を持ち、カラマーゾフ家の兄弟から恥ずかしめを受けて強い復讐心に燃える人物、そう、「出世志向の神学生」ミハイル・ラキーチンだった。
ラキーキンは、脇役ながら、物語の随所で幕間狂言のような役割を果たしてきた。修道院での一家の集まりにも、いわばオブザーザーとして参加が認められた(というか、作者がわざと彼の臨席を要請しているかのごとくである)。しかも、彼は、『カラマーゾフの兄弟』の悲劇のヒロイン、グルーシェニカとは従兄弟同士の立場にあり、カラマーゾフ家にまつわるもろもろの情報を手に入れることができる立場にある。おまけにフョードルとスメルジャコフの間で交わされたノックの合図も、彼女を介して察知できた可能性がある。つまり、スメルジャコフに代わってフョードル殺害の真犯人とするには、もってこいの人物の一人と見ることができるのである。そこで問題となるのは、動機。たんに復讐の一念で犯行に及んだと言えるのか。(つづく)

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