宮部みゆきの「悪霊」 ―― audible『模倣犯』雑感 3
ドストエフスキーとの比較でもう一人、注意すべき人物として浮上してくるのが、塚田真一である。一家惨殺の悲劇に遭遇し、唯一生きのこった真一だが、作者は、その彼の心理の深層から、罪の共同性という認識を掴み出してくる。被害者であるはずの真一自身がその悲劇の実現に手を貸した、いや、使嗾したと感じる心のうごきは、深くドストエフスキー的である。真一を執拗に追い回す樋口めぐみが、たんなるストーカーではなく、真一のalter ego としての存在理由を明らかにするのもまさにこの文脈である。ピースこと網川浩一と栗橋浩美の分身関係もドストエフスキーとの連関性を思い起こさせるものだ。宮部みゆきは、さまざまな趣向をこらして、ピースと浩美の関係を、美的なヒエラルキーつ、「悪霊」の異なる二つのタイプを描き出してみせた。より正確な言い方をすれば、大文字の「悪霊(Demon)」と小文字の「悪鬼(demons)」の二つのタイプである。悪鬼の長ともいうべき栗橋浩美は、地上的な俗悪に快楽を覚えるが、巨大な悪の体現者である大文字の悪魔は、どこまでも潔癖であり、善と悪のそれぞれに等距離を保つ霊的な存在として描かれる。ゲーテ『ファウスト』の有名な一節が思い出される(「悪を欲しながら、いつも善をなしてしまう、あのおなじみさんの一人です」)。他方、霊的な存在であるがゆえにピースは、みずからが手を汚すことを嫌悪し、使嗾という行為においてのみおのれの願望を美的に現実化する。この、霊的な悪魔にとことん翻弄される由美子こそは、真に悲劇的な、ファウスト悲劇に連なるヒロインといってもよい。もう一つ、ドストエフスキーの関連で述べておきたいのが、この小説全体に底流する母の不在である。物語も大詰めにきて、ピースによる母親殺しの事実を明らかにされるとき、読者は、この物語全体を貫くメインテーマがどこにあったのかを納得する。拒否された母性性とは、果たして何を意味するのか。母たちの終わりが、これほどにも惨たらしく描かれた小説を、寡聞にして私は知らない。絶対的支配という欲望に取りつかれたピースそして浩美の二人にとって、第一に乗り越えるべき相手こそ、母性性だった。宮部みゆきにおける母性性の主題は、四半世紀遅れて彼女を知った私のなかで改めて議論すべき対象となりそうな予感がする。
75時間におよんだ恍惚の時が終わった。今、私を包みこんでいる感覚は、ペットロスに近い空虚感だ。胸のうちでひそかに何度もつぶやいている。これは60年ぶりの体験だ、と。ほかでもない。かつて中三の夏に二週間かけて『罪と罰』を読んだときの主人公との一体化の経験が再現したのだ。七十代も半ば近くに来て生じたこの時ならぬシンクロの体験は、どのようなメカニズムを介して生じたのか。むろん第一義的にはそれが、宮部みゆきの言葉の力に由来していることはまちがいない。しかし他方、物語を耳で聴くという、audible の原初的な方法にも影響の源を探り当てることは可能だと思う。私はかつて、ドストエフスキーの『罪と罰』を「人生最後の童話」と呼んだことがある。「本当は怖い」グリム童話のたとえではないが、朗読者の声が押し開く世界には、ことによると作者の予想をはるかに上まわる広がりが約束されているのかもしれない。言い換えると、75時間の旅は、「本当は怖い」童話の世界だったということだ。タイムマシンのドアを開けて外に出た私はふと、自分の発する声が、加藤将之氏のそれにかぶさって聞こえてくるのを感じて驚いた。加藤将之氏とは、このaudible『模倣犯』の朗読者である。モンゴルの二重歌唱(ホーミー)さながら、二つの声の持ち主となる気分はひどく心地よかった。この感覚の持続は、私がまだ『模倣犯』の世界に登場人物の一人として留まりつづけていることの証ということになる。(完)