悲しみの太宰 3-2
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信と不信のせめぎあいという視点において、太宰は驚くばかりにチェーホフと共通するものをもっていた。チェーホフ後期の小説に「恐怖」と題する、それこそ恐ろしい短編がある。「友人の語」として巧みにカムフラージュする手法は、太宰がいくつかの短編で試みた形式によく似ている。「恐怖」の主人公のドミートリー・シーリンは次のように述懐する。
正常で健康な人は、見たり聞いたりする一切のことを理解しているつもりですが、ぼくはこの「つもり」というやつをみごとになくしてしまいましてね、そのために来る日も来る日も恐怖に中毒しているんですよ。……僕が恐ろしいのは、主として平凡なこと、つまり、われわれが誰ひとり逃げ隠れできない月並なことなんです。
語り手の「私」は、ある日、地主仲間であるこのシーリンの屋敷を訪ね、しばし歓談の時を過ごす。夕食後まもなく、シーリンは、明日の朝が早いことを理由に、ひと足早く寝室に姿を消す。残された「私」は、彼の妻マリヤととりとめもない言葉を交わすうち、彼女が密かに自分への恋心を抱いていることを察知する。その夜、闇にまぎれてキスを交わした二人は、そのまま客室で抱きあう。午前三時、客室を出て夫の寝室に戻るマリヤを見送ろうとした私は、廊下の奥にとつぜん姿を現した夫シーリンの姿を認める。彼は、狩猟用の帽子をとりに客室に入り、出がけに一言、「ぼくは生まれつき何も理解できないようにできているみたいだ」とつぶやき、「目のなかが真っ暗です」と言いのこして家を出ていく。読者の多くは、帽子をとりに客室に入ったシーリンが、二人が情熱的に愛をかわしあったベッドの乱れを凍りつくような思いで一瞥したにちがいないと想像する。
読者は、この小説にどんなテーマを読みとるべきなのか。「月並なこと」の愚劣さを、現実の恐ろしさを知れ、といった、それこそ月並な内容だろうか。いや、そんなことではありえない。チェーホフは、たんに「『つもり』というやつ」をみごとに失った一人の男の悲惨を冷酷なタッチで描きだすだけである。ともあれ、シーリンが中毒していた恐ろしい事態が、目の前で、しかも信頼する友人のいっときのきまぐれから現実化した。もはや、「知らぬが仏」ではすまされない(「逃げ隠れできない」)、救いようもなく俗悪でグロテスクな日常性。いや、はたしてこれを、チェーホフは本気で、「平凡なこと」、「月並なこと」と考えていたのだろうか。もしもこの事態が、「平凡なこと」であり、「月並なこと」であるとしたら、当時のロシア社会のモラルは、現代の読者が想像する以上に汚れきっていたことになる。
主人公シーリンがかねて抱いている恐怖は、観念的といえば、たしかにそのとおりである。ところが、その抽象的な言辞の背後に隠されている予感が、まったくの杞憂であると断定できる保証はどこにもない。事実、シーリンの「恐怖」は、彼がその「恐怖」を告白した当の語り手(「友人」)によって「現実化する」。月並であるけれども、おぞましい。しかも、その恐怖の演出者は、「三十歳前後の無学な小男の商人」(「人間失格」)ではなく、いっときのきまぐれな悪意にかられた主人公の友人である。この人間関係をかりに「人間失格」に置き換えるなら、主人公の「友人」とはだれだろうか。「つもり」のヴェールを破り去られたシーリンの恐怖は、まさに葉蔵に新しい恐怖となって襲いかかる。
いつも自分から視線をはずしておろおろしているヨシ子を見ると、こいつは全く警戒を知らぬ女だったから、あの商人といちどだけでは無かったのではなかろうか、また、堀木は? いや、或いは自分の知らない人とも? と疑惑は疑惑を生み、さりとて思い切ってそれを問い正す勇気も無く、れいの不安と恐怖にのたうち廻る思いで(後略)
このように見ると、太宰=葉蔵が陥った「不安と恐怖」は、事件が起こった後の「恐怖」の主人公シーリンのそれに似ている。絶対性の囚人となった葉蔵が絶望し、許しがたいと感じたのは、「信頼の天才」であったヨシ子の「不義」が、まったくの無意味な行為(=「月並なこと」)によって現実化された、という一点にあった。ある意味でそれは、戦後の農地改革によって崩壊した地主階級の選民意識の表れだったかもしれない。だが、不幸にして、太宰の胸のうちに生じていた事態とは、このあまりに無意味で「月並な」現実が、ある種の崇高なオーラを帯びはじめていた点にある。なぜなら、彼は、もはや生きることに肯定的な意味を見出せず、無意味と月並のなかに、何がしか至高の価値を認めはじめていたからだ。戦前戦後を通じて、太宰の精神力を支えていたのは、世界と結ばれているという快美感の感覚だった。その快美感が徐々に失われていくドラマこそが、長いプロセスを経た自死のドラマであった。(つづく)